煩悩即サトリ
制末大攝心5日目
クモの巣に水滴
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
我々は煩悩というと苦しみにもとで、それを全部なくしてしまえばサトリが得られる
と思いがちですが、そうではありません。
渋柿があります。木につるして干しておいしい干し柿になる。この渋柿を渋いから
食べられないと全部捨ててしまったら何も食べられない。私たちの煩悩も同じような
もの。煩悩が全部滅却してしまっては私たちの命そのものがなくなってしまいます。
道元禅師は「迷いこそ、そのままサトリだ」と仰せになっています。ですから、
迷いを厭い嫌う必要もないし、逆に、サトリを願う必要もない。そうなってはじめて
迷いから離れることが出来るのです。
食欲、睡眠欲・・・などこの煩悩こそ私たちが生きようとする活動の源泉です。
それはいはば、仏様からたまわったところのいのちそのものです。この煩悩を
邪魔だから捨ててしまおうというのは、極端に言えば、仏様のいのちを失うのと
同じです。
ですから、煩悩を無理に捨てることはない。それは今日の言葉で言えば「燃料」
「活力の源」のようなものだからです。大切なのはそれを上手に使うこと。
煩悩を修行の活力の源にしていく。みんなの為に尽くしていこういう大きな欲望に
運用していけば、それこそ、「煩悩即サトリ」です。
煩悩は全部なくした方が良いと煩悩を切り捨てようとすると、やればやるほど
遠ざかってしまう。肝心なのはいかに煩悩を活用していくかです。たとえば、火は
多すぎれば、大火災となり人を苦しめてしまいますが、上手に活かしていけば、
火はご飯を炊いたり、お湯を沸かしたり暖をとったりと役に立つようなものです。