水晶玉のような
制末大攝心・中日
ムクゲのきれいな季節となりました。青空がよく似合います。於 黄梅院
横田南嶺老師が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
こころというものはちょうど水晶玉のようなものです。心は普段、常にいろいろと
思いを巡らして、それはあたかも水晶玉の上に様々な映像を映し出しているような
ものです。
良い思いをすると心には、良い映像が映り、嫌な思い、思いに任せないことがると
暗く沈んだ影を映し出す。私たちの迷いというのは、水晶玉に映るこの影ばかりをみて
一喜一憂しているのです。
水晶玉の表面に映った影に振り回されるのでなく、その水晶玉の本質は何であるかに
目を付けなくてはいけません。それは透明で光輝いた、何ともきれいな宝石です。
そう気がつくのが見性です。
私たちの意識もそうであります。私たちの意識は普段、「暑い!痛い!早く終わらないかな!
・・・」などの意識の表面に浮かぶ感情ばかりにとらわれるなど、心に表れた姿・形ばかりを
追い求めている。
私たちのこころも、表面には様々なものが映っているけれど、本質は水晶玉のように何のけがれること
もない、何一つ傷つくこともない仏様のこころであったと気づくことが大切です。