無為
半制大攝心6日目
大方丈の庭(只今、一般公開しています。)
横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『列子』という書物に弓の名人の話しがあります。それは、趙の都・邯鄲に住む紀昌(きしょう)が、
天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛(ひえい)、
次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅(かんよう)に師事して「不射の射」を
体得するという物語です。それで話しは終わりません。弓の奥義を体得した紀昌がその後どうなったか?で
あります。
紀昌は体得したからといってとても気負った風はさらさらなく、ただのへいへい凡人として暮らし
弓を使うことも矢を用いることがなかった。紀昌はある時に古道具屋に行き、店の主人に棚にかかっている
弓矢を指して「あれは何か?」と尋ねた。店の主人は「弓矢もしらないのか?」と言ってしまったが
その客の顔をよく見ると弓の名人で名高い紀昌ではないか。
紀昌は最後は弓すら忘れてしまったのだ。そんな紀昌であるが彼の住む村では不思議なことに
泥棒が押し入ることがなかったそうな。泥棒が押し入りようとしても何かただものならない気配が
してとても押し入ることができない。そうして村は平和に保たれた。
これが「無為(むい)」というものであります。私たち、禅の修行者も最初は数息観や無字や公案や
坐禅だ見性だと一生懸命やりますが、しかし、そういうことを意識しているうちはまだ、本物ではない。
「坐禅って何?」「公案ってなんだそれ?」と忘れてしまうほどになればたいしたものです。
それでいてその村にその和尚さんがいてくれるだけで何か、その村からは争いごとがなくなり
みんなが穏やかに和やかに、和尚さんのところでお茶でも飲みながら楽しく暮らしている。
それが「無為」であり、私たちが目指す究極の理想の姿です。
{平成26年6月23日(月) 正受老人崇行録提唱より}