夢と知って夢を説く
山アジサイ 於 黄梅院
先日の僧堂大攝心で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
私たちは、大概、自分で迷いを作り出して自分からその迷いの中に落ち込み
苦しんでいる。お互いの本心というのは本来仏心であり、それ以外ないはずであるのに
なぜ、私たちは迷い、苦しみ、妄想を自分で作り出してしまうのか?
お互いの心にふっと念(思い)が湧くのは、あたかも、大空に雲が湧くがごとく実体のない
ものです。ところが人はこの実体のない念にしがみつき、とらわれ、これこそはと
思い込んでしまう。こうなると迷いが現実に表れて、自分の心も苦しめ、果てには
体にまで様々な影響が出てしまう。そしてまわりの人をも苦しめ、当の自分をも
苦しめる結果となります。
ふっと湧いてきた実体のない念にしがみつき、思い込むが為に、様々な苦しみが表れて
来るのです。私たちはその妄念の起こる様子をよく観察しなければなりません。ちょうど
大空に雲が浮かんではやがて消えていくように、念が起こる様子をよく観察することが
大切です。念の中に取り込められてしまってはいけません。
その為には、まず、腰骨を立てて、下腹部の丹田を充実させること。立腰道の究極は
丹田を充実させることにありと言われます。腰骨を立てて長くてゆったりとした呼吸を
しながら、ただ、念の湧いては消えていく様子をよく観察する。
そうすると一度は私たちのこころは、雲一つない青空のように澄み渡ったものであると
気づくはずです。今まで様々な執着をして、すべては夢のごとくであったとこう気づく。
それで終わってはいけません。今度は、夢(のように実体のないもの)とわかった上で
お互い夢をみていく。夢とわかっている夢は、それに振り回されることもありません。
夢と知った上で夢を説いていく。
空(くう)とは実体がないといくら説いても、一般の人の心には響きません。そこで、
夢と見定めた上で人の世の悲しみであるとか、いくつしみであるとか、親子の愛情や
亡くなった人ともまたきっと会えるということを説いていく。
夢とさとって夢を説くのです。明るく生きていく夢を説く。これが私たち、お坊さんの
仕事です。念にしがみついて「自分は迷っている」と思いこんでしまっている執着を
打ち破らなくてはいけません。
{平成26年5月25日(日) 僧堂攝心 『念起即覚』提唱より}