こころは虚空のごとく
円覚寺大方丈で行われた日曜坐禅会の風景です。初回は、約90名の方々が参加されました。
横田南嶺管長が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
皆さんは、こうして大方丈に上がって何を見ていますか?仏像、畳、座布団、人・・・を
見たと言われるでしょう。しかし、ここ、大方丈で一番大事なものは何か?それは、
この大きな空間です。一見、何にもない空間こそが一番大事なのです。
しかし、この空間はいったい、何にもないと言えるのでしょうか?
何もない広い空間があるからこそ私たちはこうして生きることができます。
真空パックの中では一秒も生きることはできません。大事なのはこの空間であって
仏像や畳などはその中にある極一部のものにすぎません。
では、この空間はどこまで広がっているか?天井までか、いやそうではありません。
天井を越えてずっとある。また、この空間はいつからあるか?この建物やその中にある柱や畳は
せいぜい、数十年ですが、空間はずっと昔からある。空間こそ私たちを生かしている一番大事な
ものなのです。
私たちのこころも、この広い空間と同じようなものなのです。何ら姿形はなければ、見ようとしても
見られるものでもない。しかし、空間を何もないのではなく、お日様の光が広い空間をずっと
照らし渡っている、空気で充満している。
私たちは空間を見ようとはしないが、本当は一番見ているのは、この空間なのです。今、ここにいる
私たちの目の中に一杯に満ちあふれているのは朝の光であります。
この空間は、いつ生じたいつ滅したということなくずっと続いている。この空間こそがわが本心なのです。
こころというのは我々のこの小さな体の中に収まっているのではない。こころがどれだけ広いのかは、
空間が果てしなく広いのと同じです。空間は天井の高さやまではありません、天井で仕切られているだけで
仕切りを取ってしまえばずっと続いている。仕切りをつけるから、狭いのです。
こころもまたしかり。自分の体の中だけにこころがあるのではない。皮一枚だけに仕切られているだけで
本当は皮の外もこころはずっと続いている。そのこころに気づくのがサトリです。
私たちのこころは、どんな人にも平等です。仏になるとこころが清らかになるとうのではなく
迷っているからといってこころが劣っているというわけでもない。こころは全く平等なのです。
都忘れ