大攝心 開始
入制大攝心 初日
今日から円覚寺専門修行道場(僧堂)では、1週間の大攝心(集中修行期間)に入りました。
開講にあたって横田南嶺老師による偈です。
意訳してみました。
今年は新たに7名の雲水が加わり、僧堂は全部で25名となり、僧堂に詰める居士も含めて
禅堂の単(坐る場所)はもう満席。
舎利殿の後ろの山には新緑がまぶしく、庭のツツジの花も咲き、杜鵑などの鳥がさえずり、
禅堂裏の池のカエルたちも大合唱する季節。
同じ釜のめしを喰い、いっしょに切磋琢磨する修行仲間たちよ。
それぞれがそれぞれの心の花を咲かせよ。
横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
「仏とは何であるか?禅とは何であるか?」と外に求めれば求めるほど
遠ざかってしまう。それよりも「その求めているものは何ものか?」と
方向を内に変えてみることが大事だ。
「悲しみや喜びなど様々な感情を引き起こしているのは何ものであるか?」と
自分の内に問いかけてみる。「持ち物よりも持ち主」という言葉があります。
たとえ、いろいろな物を持ち、学問では様々な知識を得て、たくさんの着る物を持って
いようと、本当に大切なことは、その物を持っている持ち主であり、知識を持っている
その人であり、服を着る本人が何ものであるかと言うことです。
今、ここでこうして見ているもの、聞いているものは何ものであるかと
心の内側へ求めていくのが悟りの道であり、目で見えるもの、耳で聞こえるものなど
外の対象へと求め、それに振り回されてしまうのが迷いの道です。
要は一心の向けようです。
この1週間の修行期間は自分の心の内に向かい、自分の心だけを見つめることの
できるある意味、ぜいたくな時間です。見たり、聞いたり感じたりしている其の当体は
何ものであるか?を追究していけば、「ああ、本心は仏心そのものであった!仏心の光明に
満たされていた!」と必ず気づくはずです。