祈りと坐禅は車の両輪
4月10日(木)
昨日、円覚寺山内の如意庵さんで、暁天坐禅会の方々との粥坐会が行われました。
横田南嶺管長にお出でいただき質疑応答の時間がありました。管長がお答えになった
一部をまとめてみました。
祈りをずっとつきつめていくと結局最後のところは我を離れる、我を捨てるにいきつく。
自分のわがままと思いを離れてすべてをゆだねる。天の心のままにすべてをまかす。
これが究極です。
キリスト教で言えば「御心のままに」です。我を離れてすべてをゆだねる。自分を
全部捨ててしまうこと。ゆだねることによって己を捨てる。
坐禅は己を捨てよう捨てようとやっていって、なかなか捨てきれない。ですから
延命十句観音経などの祈りと上手に補完するといい。
キリスト教と禅が交流しているのも究極のところで一致しているものがあるからです。
最後は神様なら神様に全部ゆだねる、己を捨てきる。坐禅によって己を捨てるのと
一つです。
祈りが最終的にいきつくところは、自分のことを忘れて何か人の為に尽くすことです。
生きている間は己・自我は完全に消えることはないが、一心に祈っているうちに
段々と執着がなくなってきて人の為と思うようになり、そうなると天地自然と一つに
なってくる。
坐禅だけではどうしても「捨てよう捨てよう」という思いがいつまでも残ってしまう。
であるから、かえって「病」になってしまうことがある。己を捨てるはずの修行が
いつの間にか「修行をしないヤツはだめだ!」というように人を責めるように
なってしまう。そうなったら、これは間違いです。
あくまでも己を捨てる為の修行です。延命十句観音経などの「祈り」と坐禅は
補完し合って相乗効果があるのです。
昨日は、午後から、 円覚寺山内・雲頂庵さんの望岳殿にて
満開のしだれ桜のもと、横田南嶺老師や雲水さんが出席し
東日本大震災追悼法要が行われました。