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臨済宗大本山 円覚寺

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2014.02.03

意識・分別のおおもとは

2月3日(月)
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<居士林前の梅も咲き始めました。>
 横田南嶺管長が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 坐禅をして「無心になった!」とか「悟った!」とかと自分で意識・分別
しているうちはまだ本当の「無心」でも「悟り」ではありません。
この意識・分別する思いをさらに打ち砕く修行が必要です。
 いろいろなことにおいて意識・分別してとらえたものは有限であります。
しかし、その意識・分別を生み出すものは無限です。
 長年、宗教者と対談をされている方がおっしゃっていましたが、
人にお話をするときに意識・分別をしている方のお話は、人の心には届きにくい。
私たちはつい意識・分別でものをとらえてしまいますがそれは有限であり、
その意識・分別を生み出しているものは無限であると。
 
 「これは仏心だ!」「これが真実の姿だ!」と言葉や意識・分別でとらえて
しまっては、それは絵に描いた餅で真実とはほど遠い。
 そうじゃない、この意識・分別を生み出しているおおもとを尋ねていくと
春は花が咲き、鳥が鳴いている、そんないのちあるものと一つにつながって、
一つに通じて大いなるいのちと1枚になります。
 そこで初めて言葉が活きてくるし、いのちも活きてくるのです。「もうすでに
自分はこんなに満ち足りていたんだ」という智慧が湧いてくるのです。
 

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