円覚寺の泣き開山
1月28日(火)
今日、円覚寺・横田南嶺管長猊下は建長寺で開催された「新春法話の集い」で
「仏光国師(円覚寺開山)の言葉に学ぶ」という演題のもと提唱をされました。
終盤部分をまとめてみました。
私が仏光国師の言葉の中で一つこれはというものを選ぶとすれば
「若(も)し頻(しき)りに涙を下らしめば、滄海も也た須く枯(か)るべし」
という言葉です。この言葉は「海の水がたとえ枯れてしまったとしても、私の
涙が枯れることはない」という意味です。
ではこの涙とは、いったい、何の涙なのでしょうか?それは人々が悩み苦しんでいる。
その悩み苦しんでいる人のことを思うと人ごととは思えない、放っておくことができない、
それで私は涙を流すということなのです。
毎年、10月3日に行われている円覚寺の開山忌では必ずと言っていいほど雨が降ります。
ここ建長寺の開山忌は石も割るような夏の暑いときに行われるのと、開山・蘭渓道隆禅師が
峻厳で厳しい家風であったことから「建長寺の石割開山」と呼ばれ、対照的に円覚寺開山・
無学祖元禅師は上記のようなご性格であられたこともあって「円覚寺の泣き開山」と
呼ばれています。
私はいつも開山忌に降る雨を見ながら、この雨は開山さんが流している涙かなと思うのです。
涙は尽きることがない。悩み苦しんでいる人のことを思って涙を流したからといって
何になるのだと思うかもしれません。
しかし、自分自身が本当に悩み苦しんで困っているときに自分の為に涙を流して
くれる人がもし一人でもいたら、その人は救われる気持ちになるのだろうと思います。
たとえ、その本人の気がつかないところであっても、自分の為に涙を流してくれた人が
いるという事実は大きな救いになるのだと思います。
円覚寺の創建より700年、開山さんの涙は尽きることがありません。開山さんは
幼少時分、生き物が殺されるのを見るとまるで自分が切られるように痛い気持ちに
なったという逸話があります。
ですから開山さんは現代の私たちの苦しみをみて、他人事ではなく自分のこと
のように涙を流しながら見てくださっていると思うのです。そう思うともう少し
頑張ろうという気持ちが湧いてくるのです。
会場の建長寺には400人以上の方々が拝聴にお見えになっていました。