たとえようもない素晴らしいもの
7月21日(日) 夏期講座・3日目
南嶺老師師が夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。
皆さんはこのような講座などに何かを求めて来ます。禅では、
「何を求めているか?」よりも「その求めているものは何ものか?
何ものが求めているのか?」に視点を変えて問いかけます。
六祖慧能禅師は、まだ修行中の南嶽懐譲禅師に「何を求めてここへ
来たのか?」ではなく、「ここへ来たものはなにものか?」と
問いかけられました。そう問われて、懐譲禅師は8年間この問題を
ひたすら考えました。
考えに考えて出た結論が「一物を説似(せつじ)すれば即ち中(あ)たらず」
という言葉でした。何かこれですよと言葉に表現すれば、もう違う、本質から
逸れてしまう。なんともかんとも言いようがないとうことです。その答えを
訊いて慧能禅師はそうなのだとうけがいました。
仏の教えで大事なことは、皆さんがご覧になっている講本の上に
あるのではなく、ご覧になっている一人一人なのです。今こうして
講本を見ているもの、今こうして講義を聞いているもの、これこそが
仏様であります。求めていたもの、さがしていたものは、他ならぬ
自分自身だったと気づくのです。
「何が見ているのか?」「何が聞いているのか?」その当体はどこにも
見当たらないが、しかし、確かに見ているもの、聞いているものがある、
それが生きているという何よりの証です。
その当体は、言葉ではたとえようがない、説明がつかないというので
それを仏様や仏様のいのちというようなたとえで表現しているにすぎない。
その生きているいのちこそ仏様のいのちでありみんなこの仏様のいのちを
いただいてこの場にこうして坐って話しを聞いている。
限りなき 仏のいのち 今ここに
この一息に 生きておるなり
という歌を作ってみました。こうして坐っているところにたとえようのない
素晴らしい仏様のいのちが今こうしてここに呼吸をしているんだという歌です。
私たちのいのちの当体というものは、それを言葉で表現することも理解することも
できませんが、しかし、確かに、ただ感じることはできるのです。これを何とも
有り難い、何とももったいないものであると、この体で感じることができる。
私たちはそんな素晴らしいいのちをいただいて生きているのです。
妙心寺派管長 河野太通老師
染色家 吉岡先生の資料。
支子(くちなし)
紫根(しこん)
蓼藍(たであい)
(後記)
明日4日目(最終日)は
8時半から第1講 横田南嶺管長 「無門関提唱」
9時45分から第2講 森田正光先生 「異常気象と環境問題」
11時10分から第3講 桂 才賀先生 「子供を叱れない大人たちへ」
となっております。皆様のご来山をお待ちしております。