慚愧の心
7月8日(月) 制末大攝心・中日
<黄梅院にもヤマユリが咲き始めました。>
管長様が提唱されたことをまとめてみました。
江戸時代後期の月船和尚というお方は、若い頃、たいへんな修行を
積んでいったんは住職になったにもかかわらず、それをよしとせずに、
もっと禅の本来を求めてその寺を捨ててその地を離れ、今の横浜・永田の地に
小さな庵を結んで修行に打ち込まれました。
古人先徳は、文字通り、自分のすべてをかけて道を求めて、それを体得し
そしてその教えを人々に伝え広めて、人々に安らぎと喜びを与えていきました。
そうして心の安らぎを得た信者さんによって伽藍などがととのえられ、今こうして
私たちは何不自由なく修行をさせていただいています。
代々、何千年と祖師方が法を求めて伝えていただいたその余徳によって
私たちはこうして修行をさせていただいているのです。
月船和尚はそんな風に自己に厳しく禅を純粋に求めるような身でありながら
この世で無駄飯を食べたそのご飯代のつけを支払う為に閻魔大王のところに
いくのだと、なお、慚愧の心を持っていらしたのでした。
とても私たちはそのような祖師方の修行には及びませんが、「ああ、誠に
申し訳ない」「まだまだ、修行が足りない」という慚愧の心、これだけは
失わずにいたいものです。