原点に立ち返る
6月10日(月)
管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
心が外に向かってしまうのは迷い。心を内に向けるのが悟りであると
昔の人はそのように言っています。
坐禅をして今一度、外のものばかりを追い回すのではなくて、「この見ているものは
何ものか?この聞いているものは何ものか?食べたり感じたりしているものはいったい
何ものであるか?」と立ち止まって考えることが必要です。
私たちは肝心なものを忘れてはいけません。それはこころがあればこそ、
いのちがあればこそものを見ることができ、外の音を聞くことができ、
舌で味わうことができ、呼吸をすることができると言うことです。
そのいのち、こころは仏様のいのちでありこころであります。
そのいのち、こころの尊さに気がついたなら、これは決して自分ばかりではない
まわりの人もみんな同じ尊いこころ、すばらしいいのちを持って生きているんだ、
また人ばかりではない、草や木や鳥やけものに至るまでみんな同じこころといのちを
持っているのだとわかります。
今生きてこうしていのちがあるということ、これほど素晴らしいものはないのです。
ただ、普段、便利さを追究すあまり、何でも手間を省いているような生活ばかり
していると、「いったい何が大事であるか?」「自分が何をしようとしているのか?」
という肝心なところを私たちは見失いつつあるのではにでしょうか?
食べるということ、いのちをいただいているということ、息をしているということ、
こうして生きているとうこと、いのちがあるとうこと、そしていのちをいただいている
ということ。こういう原点に立ち戻るのが私たちの禅の修行であります。
今日は円覚寺・大書院に於きまして「大坐禅会実行委員会」が開催されました。
臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念として平成28年の秋頃に
日本武道館のような大きな会場で何千人もの方にお集まりいただき、大坐禅会を
行うという目的のもと、このような会合が開かれ、様々な意見が交換されました。
建長寺の管長猊下をはじめ、各僧堂の老師様など錚錚(そうそう)たるお歴々方
がご出席されました。
横田南嶺管長からは「今までに坐禅に縁がある方はもちろん、それまで縁のなかった方
にもぜひ参加していただきたい」と仰せになりました。
「大坐禅会」に対する要望やご意見がありましたら、こちらのブログの
コメント欄にお寄せ下さいますように。参考にさせていただきたいと思います。
僧堂の雲水さんは、円覚寺境内の梅取りをしていました。この収穫した梅で
梅干しなどを作ります。