何気ない日常の中に
5月19日(日)
管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
我々は坐禅の修行だ、仏法だと言ってますが、何か特別なことをして
何か特別な経験をしなければいけないというわけではありません。
本当のところは何の特別なことはありはしないのです。
何か特別なことがあると思い求める心こそ一番の迷いのおおもとです。
何やら特別なことはありやしないかと探し求めるこころがなくなったとき
はじめて、安心、満たされるものがある。
真理というものは朝から晩まで説きづめに説いている。行じづめに
行じている。何も禅の修行といってこうしてこの居士林に来て着物を
着けて袴をはいて難しい顔をしているばかりが修行ではありません。
電車に乗っているとき、おうちでご飯を食べているとき、TVをみながら
くつろいでいるとき、ぐーすか寝ているとき・・・などみんな禅の暮らし
です。禅そのものを行じている様子です。
毎日の暮らしの何気ない一言、何気ない動作、たとえば、朝だったら
おはようございます、ごはんを食べるときはいただきます・・・など
何気ない暮らしの一つ一つにちゃんと仏心が光輝いている。
そういうところにはっと気が付いて、この何気ない暮らしの中に
どれだけ深い感謝の気持ちに満たされるかです。私は修行の深さという
のはそういうものだと思います。
何気ない暮らしの中でどれだけ感謝に満たされ周りの人に対して
思いやりのこころ、祈りのこころに満たされているかです。そのことに
気づくことが、しいて言うならば「悟り」ではないでしょうか。
数を数えたりなどいろいろな呼吸法がありますが、それは外に
向かってはたらくこころを断ち切る為には非常に有効ですが、
やはり究極のところは何気ない呼吸が理想なのだと思います。
何気ない呼吸の中にこそお釈迦様の説法が見事にはたらいている。
それに気が付かんが為にいろいろな呼吸をして意識を向けさせている
のです。
いたるところ日常の一挙手一投足、何気ない一呼吸、何気ない一言
・・・などにキラキラと光り輝くものがある。
(後記)
珍しいものが発見されました!雲水さんが円覚寺山内の妙香池を掃除して
いたら、何と!鈴木大拙居士の犬の首輪に着けていたであろう身分証の
金属が見つかりました。「雑司ケ谷五百七十二番地 鈴木貞太郎 飼犬」と
刻まれています。
裏には犬の絵が。大拙居士ファンにはたまらない発見ですね。
明日から26日まで円覚寺僧堂(専門修行道場)では1週間の集中修行期間
(月並大接心)に入ります。