インダラ・ネット
5月12日(日)
<紫蘭>
管長様が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
華厳の教えに、帝釈天の宮殿には因陀羅網(いんだらもう)という大きな美しい
網がかぶせられているとあります。この網は平たいものではなくて、ちょうど
ジャングルジムのような立方体のものです。
その網の結び目ごとにきれいな珠が一つ一つついている。そうすると一つの
珠の光というのはめぐりめぐってあらゆる全体の珠と映りあう。そして、また
あらゆる珠の光が一つの珠と映りあう。
どの珠もつながりあっているいて、一つだけ取り出すということはできない。
一つの珠の光が全体の珠の光へと輝き、映りあう。こういうものの見方です。
そして世の中に存在している私たちのいのちも皆さんのいのちも、木や草や
島にいたるまで、別々のいのちのように見えますが、実は、網の目の珠のように
つながっていて別々のものは一つとしてないのです。
お互いが支えあいながら存在するのであって一つだけ取り出すということは
できない。私という一人の人間もあらゆる人、全体と関わり合いながら生きている
生かされているという教えです。
その網の目全体と関わり合って、その網の目全部をひっくるめて仏と言ったり
毘盧遮那仏というのです。大きな仏様のいのちとは、あらゆるいのちのつながり
あった全体をいうのです。
この頃、科学の世界でも地球を一つのいのちだと言ったり、あるいは大宇宙も
一つのいのちであるというものの見方があります。まさに華厳の見方に通ずる
ものがあります。
この地球も宇宙も丸ごと一つの大きな仏様のいのちである。その大きないのちの
中で自分自身、一つのいのちを一部をいただいて生かされている。大きな仏心の
中でお互いが合い関わりながらこのいのちをいただいているのです。
それぞれが相手に対して光を与え思いを伝えながら、照らしあいながら
この全体が生きているのです。こういう教えが華厳の因陀羅網です。
栂ノ尾の明恵上人という人は、(人ではなくて)島(そのもの)に対して手紙を
書いたという記録が残っています。華厳の教えを学んで実践している明恵上人に
とっては、道端に咲いている花だろうとその辺に寝ている犬やネコだろうとあるいは
遠くの島であろうと自分と関わりのないものは一つとしてないのでしょう。
むしろ、私と同じ一つのいのちであるという平等のものの見方です。それが島で
あろうと気持ちを通わせることのできるものであったのです。同じいのちであるから
明恵上人のとっては実に自然な当たり前のことであったのです。
何を見てもどのものをとってもそこには仏様のいのちが宿っている。ですから
あの島も私たちのいのちも他ではない。そういうものの見方です。
<なにわいばらとハチ>
(後記)
昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部76名、2部56名、
今日の午後からの蔦禅会は20名がご参加くださいました。
皆様、ご参加いただき誠に有り難うございました。