坐禅中の気持ちのままで
4月26日(金) 入制大攝心・最終日
管長様が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
「坐禅儀」の中に次のようなことが説かれています。「坐禅が終わったあと、
坐禅中の気持ち・状態・禅定を保つために様々な方便手段をとらなくてはならない。
どんな動作をしていても坐禅中に養った禅定を大切に守る。まるで親が赤ん坊を
守るように、坐禅をしたときの気持ちを大事にして日常の動作に移っていけ」
食事をするときでもトイレに行くときでもずっと数息観です。何の動作をして
おっても禅定を失わないようにやっていく。そうやってやっていると、数息観を
やりながらご飯を食べる、ご飯を食べながら数息観をすることが自然とできるように
なってくる。
何をするにしても自分の呼吸をしっかり調えながら坐禅の呼吸のままで動作を
するようにする。坐禅のときの様子をそのまま日常に移していく訓練のようなものです。
おなかに力を込めて呼吸をゆったりとやっていけば自然と足音も静かになります。
この日常の動作の中で、坐禅中の工夫をおろそかにすると何をやっているのか
わからなくなってしまいます。
坐禅をする度に、もう一度最初のかえって腰を立てる、そして下腹をグッと
前につきだして押し広げて丹田に気を充実させ、数息三昧です。数を数えることを
見失わないようにする。
念・思いはいくら湧いてもすぐに数を数えることにとって返す。それを繰り返し
繰り返しやっておれば、泥水も自然と澄んでくるように念も段々とおさまってくる
ものです。
とりわけ、一番のねらいは自我という念を消すことであります。「この皮一枚の
内だけが自分だ」、「この自分が一番大事である」と思いこんでいる自我の念を
徐々にうすく消していく。
そして自我という壁を飛び越えると、「天地と我と同根、万物と一体」「天地大自然は
一枚の仏心であった」と気づくのです。朝比奈宗源老師の言葉を借りるなら「みんな
この仏心光明の中にあった」という心境です。
生きるだの死ぬだの、他人だ自分だというのは単なる妄想に過ぎない。みんな
妄想であった。生き通しの仏心であったとわかる。
また、みんなの為に人々の為に尽くそうと思い願うことによって自ずと
自我の念を削ってなくしていく近道となります。
一坐一坐、無駄にしないように、一呼吸一呼吸見失わないように引き続き
打ち込んでもらいますように。
方丈中庭のモミジと鬼瓦。
(後記)
さて、明日の土曜坐禅会2部では、管長様に無門関提唱をしていただく
予定となっています。また、仏殿裏の法堂跡では、なんじゃもんじゃの木が
白い花を咲かせて人目を惹いています。皆様のご来山をお待ちしております。