「遺体」という映画を見て
3月3日(日)
管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
「遺体」という映画を見ていろいろと思うところがありました。
私達は、普段、生と死を分けて考えています。こうして体が動いて
いれば、生きていますし、心臓が止まり瞳孔が閉じ、動かなくなったら
死となります。
しかし、はたして、生と死の切れ目は本当にあるのでしょうか?
そして、心の世界においては、はたして、死んでいるのでしょうか?
結論から言いますと、心の世界には生死の沙汰はありません。
生まれたということもなければ、死ぬということもない。生き通しの
心であり、生き通しのいのちであります。
そういうことを坐禅をして理論的にどうこうしたとしても、現実的に
体が動かない、目がみえない、何も言わないことにあたって私達はどう
接することができるか?です。
あの映画の中では、一つ一つの遺体に向かって話しかけ、言葉をかけ
ています。生きている人と同じように接しています。そういう心の世界が
続いています。これは、死体だから声をかけても仕方がないというのは、
科学の道理にすぎません。
その人がたとえ動かなくなったとしても、体か朽ちていったとしても、
お骨になり、お墓に埋められたとしても、その人との心の交流はずっと
続いています。
その人の心と私達の心とは一つ一つ相映じて連なっています。そういう
地続きのところ、一枚ところで生死、本物・偽物、善・悪を分けても
意味がない。只、一枚の仏心の世界です。
この時期にこういう映画を見て、もう一度、被災地の方々の悲しみに
寄り添う気持ちを私達は忘れてはいけないと思います。こんな被災地から
遠く離れた場所で悲しみに寄り添うと言ったって何も意味がないと思うのは
単なる目で見える世界の話です。
心の世界ではずっと直接連なっており、一つのともしびの光は全体の光と
必ず相映じます。遠く思いを致すことは決して無意味ではありません。
(後記)
午後からは、黄梅院で志塾主催の論語講義に出席しました。
國學院大學教授の石本道明先生がご講義くださいました。
管長様も最前列でご講義を聴いておられました。
さらに夕方5時から円覚寺・山内臥龍庵の開山毎歳忌に出席
して参りました。それにしても、中身の濃い充実した1日でした。