海の中の魚のたとえ
12月16日(日)
管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
海の中の魚が海の話を聞いて海が見たいとしたら、どうしますか?
海は外からでしたら見ることができますが、海の中にいては、
海を見ることはできません。
魚はいくら見ようとしても見えない。そこで、魚はいろいろと
苦労をする。波打ち際まで出て行ったり、水面を飛び跳ねたり、
海底のどん底まで行ったりと・・・。
そんな、いろんなことをしながら、ある時、「自分は海の中に
いる!」「自分のいるところが海であった!」と気付くのであります。
修行とはそういうものであります。
私達の仏心も同じです。海の中にいるのと同じ道理です。
私達も仏心の真っ只中にいるんです。それなのに、「仏心は
どこにあるのか?」と誰それの話を聞きに行ったり、新しい本
を読んだりと外に求めています。
外に求めれば求めるほどに仏心から遠ざかってしまいます。
ですから、外に求めるのやめて静かに腰骨を立てて、自分の
呼吸だけを見つめる。
そうすると「何だ!仏心はここにあったんだ!」と自分の
体で感じることができます。
魚は、ただ見ることをやめたとき、「なんだ、最初から海の中に
あったんだ!」と気付く。海の中に生まれ、海の中に生き、最期に
海の中に帰って行く。
私達も仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、そして、仏心の中で
息を引き取る。常に仏心の真っ只中なのであります。
(後記)
管長様には、臘八大攝心、成道会が終わったばかりにもかかわらず
昨日の午後、今日の午前中と居士林で提唱をしていただき、さらに
夕方から、月1回、東慶寺さんで行われている鎌禅会(仏光録を学ぶ会)
の講義までしていただきました。
誠に有り難うございました。