念に気づく
10月24日(水) 入制大攝心5日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
もう手のつけられないような大きな山火事も、その最初は
マッチかタバコくらいのわずかな火であったはずです。わずかな
火のうちであれば足で簡単に消すことができます。それが気がつかぬ
うちに木から木へと燃え移り、最後は山全体が火の海となってしまって、
こうなるともう手のほどこしようがない。
「迷い」も似ています。最初は、ほんのささいな一念です。それを
考えに考えて、どんどんと念をつなげて、迷いを自分で大きくしていく。
そして気づいた時には自分ではもうどうしようもない状況になって
しまっている。
最初は「嫌だな」と思っていたぐらいが、念をつないで「根畜生め」
になり、最後は「殺してやる」となってしまうともう取り返しがつきません。
最初の一念なら、それはささいなものなので、簡単に消すことが
できるのです。その一念が出た時にそれを消すことができれば、
人間はそんなに迷わなくてすむのです。
迷いとは念をつないでいくことです。念の起こることは
やむ得ないことですが、その念を持続させない、断ち切ること
が大切であります。それには自分の呼吸に集中すること
であります。
一生懸命、呼吸に意識を集中していると念が起こる様子が
わかります。念が起こった時点で気づくことです。「ああ、
念がわいていきた、自分は迷っていた」と気づいた時点で
念や迷いは消滅するのです。夢もこれが夢であると気づいた
時に夢が終わるようなものです。
迷っているということは、迷っていることに気づいていない
状態をいうのです。「ブッタ」とは、「気づいた人」という意味
であり、「覚」とは「気がつく」ということです。
「自分はなんとつまらない妄想を繰り返していた」と気づけば
それがそのまま本来の自己に立ち返ることであります。
そう気がつかさせるために、呼吸を一つ二つ・・・と
数えていく。そして、「只今の自分」に立ち返るのであります。
十牛図 「見跡」
「見牛」
「牧牛」
「帰牛帰家」