私達の心のおおもと
10月21日(日) 入制大攝心2日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
お互いのこの心をはっきりとさせる、これが私達の修行の目的で
あります。私達のこの心は向けようによっては、仏ともなり、鬼とも
なります。心をどこに向けるかによって、迷いともなり、悟りとも
なるのです。この迷いが全部除かれて、お悟りがあらわれてくるわけ
ではないのであります。
結論を言ってしまえば、私達各々が生まれ持っているこの心と
いうのは、誰一人例外なく、仏様と同じ源を持つ心なのであります。
しかし、現実は、この本来生まれ持っている素晴らしい心を自分で
蓋(ふた)をしてして、覆い隠してしまっているのです。
怒り、貪り、憎しみという蓋。暗い、沈む、ざわめくという蓋。
疑い、ためらいという蓋・・・。そうして自分で自分に蓋を閉ざして
しまって、自分を見失っているのです。このように、只、五欲の趣く
ままにしてしまえば、心の迷いのようすであります。
この心の内に目を向けるのが坐禅であります。この心のおおもとは
何であるか?見たり聞いたりしているこの意識の一番のもとはなんで
あるか?と尋ねに尋ねていきます。
そうすると、それこそ、そこは、生まれたと死んだとか、自分だとか
他人だとか、というもののない平等一枚の世界に気づきます。
朝比奈宗源老師の言葉をお借りすれば「永遠に安らかな、永遠に
浄らかな、永遠に静かな、光明、光に満たされている。仏心には
罪やけがれは届かないから、仏心はいつも浄らかで安らかである。」
これが私達の心のおおもとであります。
このことをはっきりとさせるのが私達の修行であります。
タンポポ <居士林>
昨日の土曜坐禅会は、初心者の部70名、経験者の部42名
晩の部9名でした。これだけ大勢の方が円覚寺・居士林で
坐禅を経験していただけることは、本当に有り難いことです。