底のない桶で
6月20日(水)半制大攝心・初日
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
こんな話があります。あるお金持ちが自分の財産を譲ろう
としたが跡取りがいない。そこで跡取りに孝行息子を選びたい
と試験をしました。「底のないつるべ・桶で井戸水を汲め」という
問題を出しました。
ほとんどの人は「そんなことはできやしない」とはじめから
やめてしまった。ただ一人の青年だけは「自分のお父さんに
なる人がそう言うのであればとたまろうがたまるまいが
一生懸命やりましょう!」と夜を徹して底なしの桶で水を
汲み続けました。
そうなるとどうなりますか?底がある桶のようにザブザブとは
たまらない。けれども、底なし桶でも一生懸命やれば、しずくが
たまっていく。ほんの数滴のしずくがたまっていく。それをひたすら
続けていくうちに気がつけば、とうとう水が一杯にたまっていた。
この話は禅の修行のたとえとして実によくできている。公案
(禅の問題)の修行は、大判小判がザクザクととれるようなもの
ではない。底なし桶で水を汲むがごとく一見何にも入らない。
けれど、何事も一生懸命やっていれば自分でも気がつかない
ところにほんの一滴でもたまっているものが必ずある。ふと、
気づいたならば、その何かたまっていたものに自分の心が
潤されているのであります。
<龍隠庵> 鬼灯(ホオズキ)
(後記)
確か、NHKの番組だったと思います。芸能人の方が
短い期間、まったく別の職業を真剣に体験する企画のもの
でした。お笑い芸人の方が中華料理のチェーン店のコックに
挑戦されていました。大きな中華鍋で、ひたすら、レバニラを
作ろうとするのですが、何度も失敗して、芸人さん気がめげそうに
なる。そこでプロのコックさんが言われたのが「あなたにとって
レバニラを作れるようになることが、これからのあなたの人生で、
役に立つかどうかわからないし、意味のないことかもしれない。
だからと言って、いい加減になったり、手を抜いてしまったら、
それこそ今やっていることが意味のないものとなってしまう。
意味があろうがなかろうが一生懸命やれば、それはあなたの
人生の貴重な財産になる」というようなこと諭していました。
なるほどと感銘を受けました。先のたとえ話と相通じるものが
ありますね。