教えないという教え方
5月2日(水)
管長様が淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
ある人から、「和尚さんになったら人前で法話をしますが
修行道場ではどういう話をするのか勉強をするのですか?」
と問われました。結論を言いますと、人前で話をするための
勉強は全くないのであります。
では、なぜそういうことを教えないのでしょうか?「門より
入るものは家珍にあらず。」という言葉がありますが、外から
もらったものは本当の宝ではないのであります。宗派に
よっては決まった話を丸暗記して人前で話をするところも
あるようですが、私達の禪はそういうことをやらないことに
重きをおいています。
では、何を話すのか?自分の体験したこと、自分の
この体で得たことを話すのが一番説得力があります。
自分の体験したことを自分で話をするのであるから
何もよそから教わる必要もありません。
禪では、毎日の暮らし(朝早く起きて、お経を読んで
坐禅をして、お粥を食べて、掃除をして・・・)全部、丸ごと
修行でありますから、その自分で体験したこと、感じたことを
素直に話をすればいいにであります。
ですから、教えないのであり、教えたら逆にウソに
なるのであります。たとえ人から教わった話を人に
しても相手の心には響かない。自分の本当のものに
なっていない話をしても人の心には響かないのであります。
教わらなくてできる話が本当の話であります。ですから、
教えないということに値打ちがあるのであります。
修行というのは、いろんなことを習い覚えるというよりも
自分自身、苦労して苦しむことであります。そして、その
身をもって苦しんだその体験だけが人にといてきかせる
話となるのです。ですから、修行の間は苦労をさせる。
いかに悩ませるか、いかに苦労をさせるかであります。
自分自身、苦しみぬいた体験が、苦しんだ分だけ自分の
本当の宝になるのであります。そして、それが人の心に
響くものとなるのであります。
そして、自分で苦しみ悲しんだその体験こそが、今度は
同じ苦しみを持つ人に対して、唯一慰めてあげることの
大きな力となっていくのであります。
世の中、(様々なことがありますが)理屈のつけようが
ないこと、もっともらしい理屈をつけても、解決しないこと
ばかりであります。やはり、理論・理屈でおさまるもの
ではないのであります。
その中で苦しみながらも手探りで、一日一日、一時一時
最期の時まで全力で生きていく。その体験だけが本当の
自分の宝となるのであります。
(後記)
明日より6日まで国宝舎利殿の特別公開となります。
みなさん、ぜひ、この機会にご参拝くださいますように。