何もしないことの尊さ
1月25日(水)制末攝心6日目
管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
修行というものは、どこまでも無心・無我であります。
心の本体は無一物であります。ついつい一生懸命修行を
やるうちに「おれはこんなにやったんだ」という気持ちが
どこかに残ってしまいますが、これがまた災いと相成る
ものであります。
もう、修行したというふりもない。
「悟り終われば 未だ 悟らざるに同じ」
悟ったとか修行したと見えることはないのであります。
こういうのを本当の無我・無心といいます。
縁側のネコがゴロンと横になって日向ぼっこをしている。
別段、人に何かしようとう気はさらさらない。しかし、火の側に
近づけば自然と温かくなるように水の側に行けば涼しくなるように
何ら計らいのない無心・無我のはたらきによって、人は自ずから
穏やかになっていくのであります。
和尚さんとして説教をすることや檀家さんにいろんなことを
やるのはいいのだけれども、余計なこと言わずに黙ってそこに
いてあげる、その場についてあげることも大切であります。
無心・無我でそこにいてあげることはきっと大きな力になる
のだと思います。
最近、ある老師がお書きになった本をいただきました。
その表紙をめくると最初に次のような言葉がありました。
「我々はもっと何もしないことの価値を知らなければ
ならない。」
私達は何もしないことの尊さをもう一度気がつかなければ
ならないのであります。