禪とは何であるか?
1月20日(金)制末攝心初日
管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
禪とはなんであるか?これは私達が生涯かけて追い求めていく
課題であります。前管長様の慈雲老師は「禪寺、禪寺と言うけれど
そこに本当に禪はあるのか?」とよく仰せになっていました。
八百屋にいけば野菜がある。魚屋にいけば魚があるが禪寺に
禪はあるのか?と。
禪とはどういうものであるか?これは非常に難しい。しかし、
あのお寺は禪寺らしい、あのお坊さんは禪僧らしいところが
あると一般にも言われます。
ある老師は「例えば、お母さんが縫い物をしていて夢中に
なって、ふと気づくと食事の支度の時間をとっくに過ぎている。
またお百姓さんが強い雨の中、よく研いだ鎌で草刈りをしていて、
ふと気がつくともう日が暮れてしまっている。そういうときにふと
心の中によぎる満足感、{今日一日よくやった!一生懸命よくやった!}
そこに禪の味わいがあるのではないか」と仰せになっています。
一つのことに打ち込むこと、一生懸命何かに打ち込んでふと気づくと
時間が過ぎている。そんな時にふと感じる満足感、満たされた思いが
禪の味わいの一つであります。
禪とはなんであるか?禪寺らしさとは?禪僧らしさとは?それを
私達は常に追い求めていかねばなりません。しかし、自分に
問いかけ続けたとしても、わかるということはありません。生涯の
課題であります。
人の評価はやはりその人が死んだ後にされるのだろうと
思います。「あの和尚はあれはあれで禪僧らしかったではないか。」
「このお寺はこれはこれでなかなか禪寺らしいではないか。」と
いってもらえるようになれば上出来であります。
禪とは心であるとも言われます。心は大海原のようにどこまでも
広くて限りがない。この広くて限りがない心というのは、
無我の心であります。己を捨てて己を殺して、己をなくして
大自然と一つになっていく。坐禅をしたら坐禅の呼吸・姿勢の中に
自分を投げ込んで一つになっていく修行であります。
鎌倉は明け方から雪が舞い降りています。