大いなる命の流れ
12月7日(水)その2
管長様が本日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
「葉っぱのフレディー」という物語があります。フレディーという名前の葉っぱが
いよいよ散るときに「自分は散るのがこわい、おそろしい」と言いますと別の葉っぱが
フレディーに説くのであります。「命あるものはみな移り変わっていく。私だってそうだ。
春、新芽として芽生えて、夏、若葉・青葉となり、晩秋になると紅葉する。みな移り
変わるのだ。春から夏、新芽から青葉になるとき君はこわかったか?夏から秋
青葉から紅葉になるときこわかったか?何もこわくないはずだ。これから散って
いくことも、同じ変わることにすぎないのだから、何もこわがらなくてもいいだよ。」
散った葉っぱは地面に落ちて、大地の養分となる。また新しい木の養分として
新芽を育て青葉として生まれ変わる。
ずっと命というものはめぐりめぐって移り変わっていく。この移り変わっていくことが
無常であります。無常ということは決して否定的でも消極的でもありません。
この大きな命の流れであります。
ずっと流れていく命の中で私達は一時この体とこの心を拝借して、最期は
お返しいたします。大きな命の流れの中に帰って行くのであります。
この大いなる命の流れを仏様、仏心、阿弥陀様というのであります。
無量劫(今風にいえば生命誕生以来の130億年)の命が、只今のこの
私の命であり、只今のこの私の命がまた無量劫の命に帰って行くの
であります。
(後記)
明朝より、僧堂では15日まで臘八大攝心です。気が引き締まります。