みんないただきもの
11月22日(火)摂心3日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
いつのころからか、自分たちの見たり聞いたり感じたり触れたり
したものに愛着を起こして、「これはいい!」「これはおいしい!」と
それを「自分のもの」としてとりこみ、「自分のもの」と執着し、それが
強ければ強いほど、生老病死・得たものを失っていくときはますます
つらいことになるでありましょう。
私達が「自分のもの」と思っているものは、何一つとして「自分のもの」
ではありません。みんないただいたものであります。それを一時だけ、授かり、
お預かりさせていただいて、必要なものを使わさせていただいて
いるだけであります。
この「我」というものも大自然からのお預かりもの・いただいたものであります。
決して自分でこしらえたもの・自分のものではありません。
「あるものは みな吹き払え 大空の
なきこそ もとの姿なりけり」
これが「自分のもの」だというものはどこにもありはしないのであります。
「自分の知識」にしても、他の人の知識の寄せ集めにすぎません。
どこにも我というものが塵一つ見当たらないと体得することが禪の
修行であります。「我がない」ことに不安になったり、恐れたりすることは
ありません。逆に「我がない」ことは何ともいえない安らぎであります。
何とはなれば、もうこれ以上失うものはないからであります。
「雲もなく 月も桂も木もかれて
はらいはてたる うわの空かな」
そういう世界を体得する修行であります。
(後記)
11月20日から26日まで僧堂では月並(つきなみ)大攝心です。
なかなか更新できずに失礼致しました。未更新中もたくさんの方に
アクセスしていただき申し訳ない気持ちで一杯でありました。
これからも、宜しくお願い致します。