自分の中の仏様
10月28日(金)その2
管長様が10月25日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
「楚鷄かえってこれ丹山の鳳」という故事があります。
昔、楚の国の人が鷄(にわとり)を握って道に立っていました。そこに
旅人が通りかかり、「それは何の鳥ですか?」と尋ねました。鷄の主は
今で言えば詐欺師でしょうか、「これは、伝説の鳥、鳳凰(ほうおう)である。」
と答えました。旅人はそんな尊い鳥を初めて見たと喜んで「それを千金で
売ってくれませんか?」と頼み、交渉の後、結局倍の二千金で買いました。
買った人は「このような貴重な鳳凰はぜひとも楚の王に献上したい」と思い
王の所に向かいました。しかし何日もかけて歩いている内にその鳥は途中で
死んでしまいました。「大金を出して買ったことは惜しくはないが、残念なのは
王様に献上できないことだ」と嘆き悲しみました。
その話が王の耳に入り、王はその人を呼んで「あなたのそんなにまでして
貴重な鳥を献上しようとするその気持ちをもっていてくれることが有り難い」と
買った額の何十倍ものお金を褒美として与えました。
さて、この話は何を物語っているのでしょうか?鳳凰と言われて鷄を
買わされてしまいましたが、その気持ちが純粋無垢でまじりっ気がない
そして人を疑わなかったおかげで、何十倍もの富を得たのでしょう。
純粋なまじりっ気のない気持ちでみれば、鶏も立派な鳳凰であります。
道元禅師が「どんな粗末な仏像でも仏像は大事にしなさい。どんな
粗末な紙片でもお経が書かれていたら大事にしなさい。どんな仕方のない
坊さんでも僧の姿をしていたら、大切にしなさい。」と言っています。
その人・そのものがどうこうというのではありません。そう拝み礼拝する
私達の心が大事なのであります。その人が純一な気持ちで「尊い仏様
だなあ」と思い拝む心こそが自家の仏様であります。仏像に手を合わせることは
とりもなおさず、自分自身の仏様に手を合わせるのと同じであります。
純一に純粋無垢に修行をすれば、けっして外の景色ではない
自己の仏心・仏性に、自分の中の仏様に気づくことができるので
あります。
総門近くによくいる猫「しのぶちゃん」です。