対機説法
10月17日(月)
今朝、暁天坐禅会参加者の方達との粥坐会が山内・如意庵さんでありました。
おかゆをいただいた後、管長様においでいただき質疑応答の時間となりました。
今回の参加者は16名。まず、管長様の前で自己紹介していきました。管長様
一名一名の名前を手帳に書き込んでおられる様子でした。そして、管長様に対して
参加者の質問が始まりました。管長様は各自の質問に対して一つ一つ丁寧にお答えに
なっていきました。いくつかの質疑応答をまとめてみました。
○呼吸をするとき、数息観(呼吸を一つ二つ・・・と数える方法)をしていますが、
坐禅の時間中ずっと数を数え続けなければいけないのですか?
管長様云く「坐禅の始めは数を数え、呼吸を意識しますが、やがて
呼吸も意識しなくなるのがいいのではないかと思います。」
○坐禅をしているといろいろな境地になりますが、どのような境地が
目標となりますか?
管長様云く「自分が悟りが進んだと思っても、孫悟空がお釈迦様の手のひらを
動き回ったほどのもの。お釈迦様からみれば、たいして違いはないのでしょうか。
たいして変わりがないにもかかわらず、自分は高い境地だと慢心になるのは
よくありません。
○堕落しているとされる仏教界、今国難にある日本を管長様はどう
改革されますか?
管長様云く「結局は、何の問題に関しても自己を正して、どこまでも
自分の問題として、身近な人に接していくしかないのだと思います。
自分にできること、自分の持ち場をしっかりと努めて、地道に身近な
人に訴えて少しずつ少しずつ共感を広げていくしかないのでしょか。
○現代の競争社会では仏教を説くのは難しいのではないか?
管長様云く「逆に競争社会であるからこそ、そこに行き詰まりを感じたときに
競争社会を離れた世界の存在が重要になってくるのではないでしょうか。
ふっと立ち止まって考える、そういう世界があると知っているだけでも大きな
支えになるのではないでしょうか。
○「不殺生戒」を守ることはできないといつも反省していますが・・・
管長様云く「戒律はいろいろとありますが、それは{守れ!守らないと
罰則だ!}というものではありません。不殺生戒一つをとっても厳密に
完全に守ることはもともと誰にもできません。それではなぜ戒律が
あるのでしょうか。そのねらいは、心のはどめにあります。生きている以上
他の生き物を殺さざるを得ない中で、戒律があることで、「これは無益な殺生
ではないか」と考えたり意識することではどめになるのであります。
など率直な質問が多数ありました。お釈迦様は、その人その人に応じて
教えを説かれました。まさにそれを彷彿とさせる時間でした。
会場の如意庵さんの鶏頭におんぶバッタがいました。
なかなか「粋なヤツ」です。