いよいよ 分からなくなる
本日は、東慶寺様で、釈宗演老師没後百年の記念講演をつとめる予定でした。
題は「釈宗演老師の目指したもの」。
宗演老師については、何度も話をしてきています。
資料も何もみなくても、いくらでもお話できるくらいですが、
昨日台風の為
東京白山の龍雲院の坐禅会も中止になったので、
じっくりと改めて資料作りに没頭していました。
すると、宗演老師について、調べれば調べるほど、学べば学ぶほど
分からなくなってきました。
まさに、『論語』にあるように、
之(これ)を仰げばいよいよ高く、
之を鑚(き)ればいよいよ堅し。
之を瞻(み)るに前に在れば、
忽焉(こつえん)として後に在り。
なのであります。
その徳は山のように、仰げば仰ぐほど高い。
その信念は金石のようなもので、
鑚きれば鑚きるほど堅い。
その高遠な道は捉えがたく、
前にあるかと思うと、たちまち後ろにある。
このような人なのかなと思うと
また違った一面を見ることができ、
学べば学ぶほど分からなくなってきました。
講演のはじめに、次の宗演老師の言葉を紹介しようと思っています。
「アメリカ合衆国から、自分第一(ファースト)という個人主義が輸入されて、
恐ろしい勢いで跋扈しはじめた。
この思想の勢いは防止することができない。
ナニモ個人主義、カモ個人主義、いちいち、自己を中心にして割り出す、
これが高じてくると危険思想にもなるのです。」
百年以上前に「自分ファースト」という表現をされているのには
驚きであります。
ではそれに対して、日本はどうあるべきかというと
宗演老師は
「我が日本人の思想としては、何が中心にならなければならないかといえば、
それは『感恩の精神』(おかげさまと恩に感ずること)
とでもいうべきものではないでしょうか。」
と仰せになっています。
この話を出だしに使って、話そうと思っていたら
台風の為、講演が延期になりました。
宗演老師のことが分からなくなるどころが
明日のことも分からないのでした。
横田南嶺