塩尻 無量寺の戸帳(とちょう)
青山俊董老師は、
愛知県一宮のお生まれ、
仏縁深いお家だったようで
五歳で塩尻の無量寺に入られました。
十五歳で正式に出家得度して
ひとすじにこの道を歩まれた老師であります。
くれないに 命もえんと 緑なす
黒髪断ちて 入りし道かも
これは、昭和五十八年勅題「緑」に寄せて
ご自身の感慨を詠われた和歌であります。
青山老師はご著書のなかで、
この和歌の思いを
「幾つもある命なら、やりなおしのできる命なら、
あれもこれもやってみればよい。
やりなおしのできない、たった一度の命なら
最高のものに命をかけたい」と述べられています。
しかしながら、そんな老師を寺に送り出した
母の思いというのは複雑であったでしょう。
あきらめきれない思いというのでしょうか
お母上様は「一度花嫁衣装を着せてやりたい」という
思いから、青山老師の花嫁衣装を仕度されていたようなのです。
塩尻にお寺で出家して、もう十何年も経ってから、
お寺に花嫁衣装の入った荷物が届いたそうなのです。
青山老師はご著書で、次のように述べられています。
「一方ではお坊さんとしての法衣やお袈裟や着物を
自分の手で織りつづけていながら、
他方ではこれをしないではおれない、「親馬鹿」といって
一笑に付すにはあまりにも哀しい親心。
私は、遂に母の念いを叶えてあげることができなかったことを
心で詫びつつ、心をこめて本堂の荘厳道具へと、
その花嫁衣装を縫いなおしました。」
無量寺におうかがいして
青山老師とお茶をいただきながら
お母様から送られた花嫁衣装で作られた
本堂の荘厳は、今もございますかと
尋ねると、
老師は、にっこり微笑んで
本堂はあのあと建て替えてしまいましたが
まだ内陣の奥に残っていますと
教えてくださいました。
法話が始まる前に本堂にお参りして
内陣の奥にひっそりとかけられている
もとは着物の帯であったという
斗帳を拝ませていただきました。
横田南嶺