宗演老師の慈愛 その2
釈宗演老師の佐藤禅忠師宛てに出された
書簡を見ていると
宗演老師の弟子に対する慈愛の深さに
心打たれます。
大正五年、宗演老師が数え年五十八歳の折
円覚寺の管長に再任されます。
宗演老師は数え年三十四歳(満三十二歳)で管長に就任し
四十七歳で一度管長を辞任されたいたのですが
再び管長に就任されたのでした。
その時に、お住まいになっていた東慶寺も
人手が足りなくなってきたので
禅忠師に、修行半ばであるが
東慶寺に帰って自分の補佐をして欲しいと頼んでいます。
ただし、禅の修行は引き続き
円覚寺の僧堂師家になった古川尭道老師について
参禅できるように、尭道老師に頼んでおいたなどと
いう手紙も出されています。
ともかくも実にこまめによく手紙を書かれているなと
感じ入りました。
或る年には、宗演老師が『拈華微笑』という本を
出版することになり
その本の画を、まだ妙心寺で雲水修行中の
禅忠師に頼みます。
どんな構図の画にして欲しいなど具体的に指示した
手紙を出されたのが、その年の十二月二十一日。
頼んだ画が届いたという禅忠師への礼状を
出しているのが、
年の暮れの十二月三十一日。
禅忠師に、典座という雲水達の食事の世話をする
役目にありながら、よく短い期間で画いてくれたと
お礼を述べられています。
依頼の手紙からお礼の手紙までの間が十日間。
当時の郵便は、今のように翌日届くものではないでしょうから
本当に頼まれてすぐ禅忠師は画を描いて送ったのでしょう。
僧堂の雲水であり、典座など勤めていますと
とても昼間に画を描くわけにはいきません。
おそらく、夜皆が寝静まってから
ろうそくの明かりを外にもれないようにしながら
画かれたものと察します。
師匠の慈愛の細やかなることと
その師の慈愛に報いようと夜中に画を描く弟子の姿が
思い浮かんできます。
手紙の中には、右肘が痛んで困るのだという記述もありました。
多くの人の求めに応じてたくさんの書を書き
手紙を書いて、宗演老師もさすがに右肘を
傷めていたのでしょう。
その傷みに絶えながらも
せっせと弟子に手紙を書いて送る
老師の慈愛の深さには
ただただ頭がさがる思いなのです。
横田南嶺