傷痍軍人(しょういぐんじん)
普段は、平成生まれの人たちと接しているので
言葉が通じないと感じることが
ままございます。
「傷痍軍人」などもそのひとつでしょう。
新聞に「傷痍軍人 パラ出場の夢」
という見出しの記事がありました。
なんでも、
「パラリンピックの原点は傷痍軍人のリハビリだった。
日本では1964年の東京パラリンピックを機に
障害者スポーツが広がり、
先の大戦の傷痍軍人たちに生きる勇気と希望を与えた」
というのであります。
普段は加熱するオリンピックの報道に、肯定的ではない
私も、そういうこともあったのだと考えさせられました。
私などは、その東京五輪の年の生まれで
かろうじて昭和三十年代なのであります。
戦後二十年近く経って生まれたのですが
まだ周囲には、戦争の跡が残っていました。
生家の向かいは、空襲で焼けたままで
瓦礫やガラスなどが散乱していて
防空壕も残っていました。
子供の頃でしたので、防空壕に入ってはいけないと
言われていましたが、
好奇心から入ってみたこともあります。
こんな暗い穴に入って、空襲の終わるのを待っていたのだと
思うと、子供ながらにゾッとしたものでした。
神社仏閣など、大勢人の集まるところには
まだ傷痍軍人さんの姿を見たものでした。
白い服を着て、道端に坐って
頭を下げて、物乞いをされているのです。
片手が無かったり、片足が無かったりした
傷痍軍人さん達でした。
この人たちは何なのだろうと思って見ていると
親から、じろじろ見てはいけないと注意されました。
見てはいけないものだと知りました。
それでも、戦争に行って、生涯不自由な身体になってしまい
路上で物乞いをしなければならない人たちの事を
思うと、何とも言えぬ気持ちになりました。
傷痍軍人の記事をみて、戦後生まれながらに
そんな子供の頃の記憶がよみがえりました。
あの頃は、まだ日本は戦争して負けたのだということが
実感として残っていました。
平和があたりまえだと思ってしまうことは、おそろしいことでもあります。
横田南嶺