雑草を取らぬ
制末大攝心での横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。
『臨済録』に「荒草(こうそう)曽(かつ)て鋤(す)かず」という言葉があります。
この解釈は様々ございます。
古いところで、無著道忠禅師は、この言葉の主語を三乗十二分教であるとして、
そのような経典で耕すことでは、
心の荒れた草をすき取ることはできないぞと説かれています。
それを踏まえてか、朝比奈宗源老師は、
「お前なぞそんなふうでは実地の修行は少しもできてはいないな」と訳されました。
山田無文老師は、「えらい草だらけで、ちっとも草刈りがしてないわ、…
三乗十二分教、お釈迦様の言葉の草がいっぱい茂っておるわ…」と解釈されています。荒草を経典とみています。
今岩波文庫で出版されている入矢義高先生の『臨済録』には、
荒草を無明煩悩とみて「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ」と訳されました。
入矢先生も、この荒草曽て鋤かずの
「主語を私(臨済その人)と取ると趣旨は忽ち一変して
『私は無明の煩悩を除いたことはない』という意味になり、
…相手の教条的な仏性観を一気に砕き去ることになる」と示しています。
しかしながら、入矢先生は、
「質問者の問題意識が初めから低次元である以上、
それに対応する臨済の答えは、右のような高次のものであっては相手に通じない」として、
「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ」と訳されました。
駒沢大学の小川隆先生は、
相手が低次元であるからといって、その相手の低調に応じた答えであるよりも、
「やはり、留保も制約もなく、その信ずべき一点を断固として非妥協的に言い切ったもの」として
「わしは雑草を鋤いたことなどない
(煩悩を除いて仏性を明かすという経論の説は、所詮、第一義ではありえない)」、
という解釈をされました。(岩波書店『禅の語録のことばと思想『臨済録』』より)。
それぞれの趣があるところであります。
臨済禅師は、学問にとらわれた学僧に対しても、
全身全霊で、仏法の真実を丸出しにされていると思われます。
そのことは、小川先生の解釈によって一層引き立ってくると思われます。
仏心の世界には、煩悩だの雑草だのという沙汰はありはしない、
そんな雑草など取ったこともないという、
臨済将軍の面目躍如たるところがうかがえるのであります。
(7月10日の提唱より)