無位(むい)の真人(しんにん)
制末大攝心での横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。
臨済禅師のお説法の中でも、もっともよく知られている言葉が、
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り」というものです。
この生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。
私とは、いったいなんでしょうか。
あなたは誰かと問われれば、まず名前を答えるでしょう。
しかし、それは仮に付けたものにすぎません。
どこの生まれであるとか、今何をしているとか、どれくらいの財産をもっているかなどというのも、
本当に自分を表すものではありません。
臨済禅師は、名前や年齢や、性格や職業など、または地位や名誉などではない、
真の自分とは何かを問われたのです。
それを、臨済禅師は、お説法の折に、禅師の話を聴いている人達に向かって、
いま目の前でこの話を聴いているものがそれだと示されました。
仏とは、今この話を聴いているものだと説かれたのでした。
本当の自分と仏というのは、禅においては同じ意味であります。
それまでの仏教では、仏とはとてつもなく長い時間かけて修行して、
ようやくたどり着けるかどうかという、遠い目標でありました
それが、なんと今ここで話を聴いているものだと示されたのですから、
驚きのお説法であります。
円覚寺の今北洪川老師も、この臨済禅師のお説法をもとにして、
「立とうと思ったら、すいと立ち、すわろうと思うたら、ちょっとすわる、
此外に何にもむつかしき分別は、更々いらぬ…
しからばこの立つやつ、すわるやつ、見るやつ、聴くやつに気を付けて、
成程仏法はこいつじゃと、只一念信入するが肝心じゃ」と説かれました。
立とうと思ったら、すっと立つ、それが仏だというのであります。
仏は遠くにあるのではなく、私自身がこの生身の体を通して、見たり聴いたり、坐ったり歩いたりしている、
そのものだというのであります。
本当の自分は、これから求めるというものではなく、
今ここにいるというのです。
実に、私たちの日常が、仏の活動だと説かれたのでした。何とも画期的なお説法なのです。
(7月9日の提唱 -『臨済録』序 – より)