icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.16 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2019.07.10
僧堂提唱

無位(むい)の真人(しんにん)

 制末大攝心での横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。

 臨済禅師のお説法の中でも、もっともよく知られている言葉が、

「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り」というものです。

 この生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。

 私とは、いったいなんでしょうか。

あなたは誰かと問われれば、まず名前を答えるでしょう。

しかし、それは仮に付けたものにすぎません。

どこの生まれであるとか、今何をしているとか、どれくらいの財産をもっているかなどというのも、

本当に自分を表すものではありません。

 臨済禅師は、名前や年齢や、性格や職業など、または地位や名誉などではない、

真の自分とは何かを問われたのです。

 それを、臨済禅師は、お説法の折に、禅師の話を聴いている人達に向かって、

いま目の前でこの話を聴いているものがそれだと示されました。

 仏とは、今この話を聴いているものだと説かれたのでした。

 本当の自分と仏というのは、禅においては同じ意味であります。

 それまでの仏教では、仏とはとてつもなく長い時間かけて修行して、

ようやくたどり着けるかどうかという、遠い目標でありました 

それが、なんと今ここで話を聴いているものだと示されたのですから、

驚きのお説法であります。

円覚寺の今北洪川老師も、この臨済禅師のお説法をもとにして、

「立とうと思ったら、すいと立ち、すわろうと思うたら、ちょっとすわる、

此外に何にもむつかしき分別は、更々いらぬ…

しからばこの立つやつ、すわるやつ、見るやつ、聴くやつに気を付けて、

成程仏法はこいつじゃと、只一念信入するが肝心じゃ」と説かれました。

 立とうと思ったら、すっと立つ、それが仏だというのであります。

仏は遠くにあるのではなく、私自身がこの生身の体を通して、見たり聴いたり、坐ったり歩いたりしている、

そのものだというのであります。

本当の自分は、これから求めるというものではなく、

今ここにいるというのです。

実に、私たちの日常が、仏の活動だと説かれたのでした。何とも画期的なお説法なのです。

(7月9日の提唱 -『臨済録』序 – より)


(写真は居士林の水場にて)

無位(むい)の真人(しんにん)

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 管長侍者日記(2578)
  • 回覧板 (おしらせ)(72)
  • ビデオ法話(216)
  • 居士林だより(2444)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ