六道輪廻
六道輪廻というと、死んだあとに、地獄に落ちたり、餓鬼道に生まれ変わったりと、
死後に生まれる世界のように思われることが多いようです。
しかし、何も死んだ後に限ることではありません。
東嶺和尚は、一日の中にも六道輪廻はあるのだと説かれています。
自分の思うように事が運ばずに怒りの思いを起こした時は、修羅道に落ちているのです。
自分の好きなものばかりを追いかけて貪欲に耽ってしまっている時は、餓鬼道に落ちているのです。
あれこれお思い悩み、心が暗く沈んでふさがってしまっている時は畜生道に落ちています。
思い悩みも深く、ケチで執着が強く、それに怒りの炎がやむことなく、
人を苦しめ物を害してしまうような時になると、それは地獄に落ちているのです。
このような状態にあるときは、人間の心を失って悪道に堕ちていると言えます。
逆に一時、心が落ちついて静かになって、何も思い煩うこともなく、胸中澄み渡ったような時は、
天上界にいるのであります。
しかし、天上界は究極の安らぎではなく、
またいつ地獄に落ちるか、餓鬼道の心になってしまうかはわからないのです。
一日の内でも、この六道をぐるぐると回っているのです。
六道の中でも、仏の道を目指すことができるのは
人間界のみであると説かれています。
地獄に落ちては、仏など思いもつきません。
餓鬼道に落ちても仏どころではないのです。畜生道も修羅道でも同じであります。
天上界なら良さそうに思われますが、
これまた苦しみがなく楽ばかりだと、仏道を求める心も起きてこないのです。
苦も楽もあって、心が正しく判断できるのは人間の心のみです。
しかし、一日の間にも六道を回っていて、人間の心の状態でいる時は、長くはありません。
東嶺和尚は、三分の二は悪道にいると説かれています。
人間の心を保っているのは三分の一くらいだと言うのです。
まずそのことをよく認識して、人間の心を保つ時にこそ、
仏道を求めるべきなのです。
とりわけ、布施に志し、戒を意識して、思うに任せないことに堪え忍び怒りを露わにせず、
精進努力して、心を静めて、正しい智慧を身につけようと努力するのです。
こうして六波羅蜜に心がけていれば、菩薩の道に入っているのです。
そのように勤め励んでいれば、必ず諸仏もお守り下さり、道は自ずと開けてまいります。
{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}