心の向けよう
オオデマリ
これから『臨済録』を学ぶのですが、初心の者がいきなり『臨済録』を読んでも、やれ棒で打つだの、
胸ぐらをつかまえて横面を張り倒すだの、質問するとすぐに一喝するだの、
なんのことやらさっぱり分からないというのが事実かと思います。
そのような世界に到るまでの階梯も、学んでおかなければ取り付く島もないかと思います。
そこでしばらく、白隠禅師のお弟子である東嶺和尚の『入道要訣』という書物を学んでまいります。
この書物は、仏道はどのような入り口から入り、どのように修行を進めていったらよいのか親切に説かれています。
まずはじめには、我々迷える衆生も仏も本来同じなのだと説かれています。これが禅の教えの根本であります。
では、どうして仏と私たちとこんなに隔たりがあるのかというと、仏と我々では心の向けようが違うのだというのです。
仏は、心を内に向けて自心を悟ると言います。自らの心の本質に目覚めることができるのです。逆に我々迷える者は、
心が常に外に向かって、欲望の対象を追いかけているというのです。そこで愛するものには貪著を起こし、
憎いものには怒りを起こして種々の苦しみを生みだしてしまうのだというのであります。
ですから、坐禅の修行は、まず外の世界に心を向けないように、自心を見つめることに心を用います。
{横田南嶺老師 入制大攝心提唱より}