嬉しがらせの名人
セッコク
円覚寺の歴史は七百数十年に及びます。しかし、その間決して順風満帆であったわけではありません。
幾たびも火災にも遭い、寺の存亡の危機もございました。
とりわけ、徳川幕府が滅んで明治新政府になった時も大きな打撃でした。それまでは、鎌倉時代、室町時代そして徳川時代と、
代々の幕府が寺を支えてくれていました。幕府が滅ぶということは、寺を支える経済基盤を失う事を意味します。
そんな中、円覚寺には明治八年に今北洪川老師がお入りになりました。幕府が滅んで、
その上に廃仏毀釈という危機的状況の中で洪川老師がお越しになりました。
洪川老師は、すぐに禅堂を再開して、更に択木園という、今の居士林にあたる在家の人の為の道場を開きました。
大勢の人達に禅の道へ門戸を開いたのでした。鎌倉は東京からも近かったので、大勢の人達が参禅に訪れるようになったのでした。
そこで、お釈迦様以来の本来の寺のあり方である、僧は法を施し、在家は財を施して、寺を維持するように致しました。
その伝統が今日まで続いています。それはひとえに洪川老師の功績であります。
しかしながら、最近その洪川老師のご苦労を改めて思い知ることができました。
『明治大正人物月旦』という書物に洪川老師のことが紹介されているのを知りました。
そこに洪川老師は「嬉しがらせの名人」として紹介されていたのでした。当時の学者や政治家大勢の人が鎌倉に坐禅に通うようになったのは、
洪川老師のおかげであると書かれていました。もしもこの洪川老師がいなければ、坐禅などこんなにはやらなかったろうとまで書かれています。
それは、ひとえに洪川老師の人となりによるのです。この書物には、洪川老師の事を「どのお客へも必ず喜びさうなことを三つも四つも云ふ、
思ひ切り嬉しがらせるのが滅法上手だった。又来たくなるやうに持ち掛けるので足が近くなる」と書かれています。
どんな人にも相手が喜びそうなことを言う、また来たくなるようにさせるというのです。
これは生来のご性格によるものか、努力されたものなのか分かりませんが、少しでも相手を喜ばせたい、よく導いてあげたいという、
洪川老師の純粋な思いによるものかと察します。こんな努力があってこそ、多くの人が坐禅をするようになっていったのだということを、
今の私たちは忘れてはならないと思います。どうも禅僧の中には、人が来ても「何しに来たんだ」と言わんばかりに、
上から目線の人も多いように見受けられます。反省すべきかと思います。
思えば、鈴木大拙先生が初めて洪川老師にお目にかかった折にも、洪川老師がどこの生まれかと聞かれ、
まだ青年の大拙先生が金沢の生まれだと答えますと、北国の者は根気がよい、大いにやれと励まされたと記されていますが、
この一言でも分かります。まだ若い大拙先生も、洪川老師の一言で、よしがんばってみようと思われたのでしょう。
こんな言葉を「愛語」というのでしょう。
{横田南嶺老師 入制大攝心提唱より}