「水のようにさらさらと」
洛浦(らくほ)禅師のところで修行していた僧が、お暇することになりました。
洛浦禅師にご挨拶すると、一つの問題を出されました。
あたり一面を山で囲まれていたら、どうやって出かけるのか、一句を言えと問われました。
その僧は、よい答が見つからず、困ってしまいました。
たまたま、寺の畑を通りかかったところ、畑を耕す僧から、どうしたのだと尋ねられました。
こういう訳で、禅師から問題をいただいたけれども、よい答が見つからずに困っていると告げると、その畑を耕していた僧が、こう答えれば大丈夫だと一句を教えてくれました。
それが、「竹密にして妨げず、流水の過ぐることを、山高くして豈に、白雲の飛ぶを礙(さ)えんや」という句でした。
これは幸いと、その僧は、洛浦禅師に一句出来ましたと、示します。
ところが、洛浦禅師から、それはあなたの句ではないでしょうと言われて、
畑を耕していた僧から教わったのだと白状しました。
洛浦禅師は、畑を耕している僧の力量の優れたことを認め、将来大禅師になると言われました。
はたしてその通り、永安院に住して善静禅師と呼ばれ、何百人ものの修行僧が集まったということです。
示された一句の意味は、どんなに竹が密集していても、流れる水は何も滞ることなくさらさらと通り過ぎていくし、
山がどんなに高く聳えていても、白雲はなにも妨げられることなく悠々と飛んでゆくということです。
なにか些細なことに、とらわれたり、ひかかったりしてしまうお互いですが、
水のようにさらさらと、雲のように悠々ととらわれなく生きられたらいいのです。
時には、こんな禅語をとなえてみたら如何でしょうか。
(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)