愚癡と後悔
その仏心は、「不生」といって生まれることも滅びることもなく、しかも、すべてを明らかに知る不思議な働きを具えたものなのです。
盤珪禅師は「あれこれ思い悩んだり、はからいを起こしたりせず、ただこの不生の仏心のままでいなさい。
不生の仏心のままでいることこそ、諸仏が悟り得られた境地そのものなのだ」と説かれています。
しかし、私たちの日常は仏心のままでいることがなかなかできないのです。
また盤珪禅師は、こんな問いも受けておられます。
禅師のお示し通りに、何のはからいもせずに仏心のままでいればいいというのは、あまりに教えが軽すぎるのではないかというのです。
それに対して、盤珪禅師は、仏心でいるということが、あなたのいうように本当に軽いことであるのかと問い返します。
あなたは仏心をなんでもないことのように思って、本来尊い仏心を持っていながら、何かに対してすぐに腹を立ててしまい、腹を立てると修羅道に落ちてしまっているではないかと仰っています。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と、仏教では六道というものが説かれています。
六道は六つの迷いの世界です。
腹を立てれば修羅道に落ちてしまうのです。
自分の気に入らないものに対して腹を立てますし、逆に気に入ったものに対しては、欲望を出してしまい、仏心を餓鬼の心に変えてしまうのです。
さらに愚癡です。
愚癡というのは、「愚痴をこぼす」というように不平を言うような意味に使われますが、本来は愚かさです。
仏教では貪り、怒り、愚癡という三毒を説いています。
三毒の愚癡を、盤珪禅師はわかりやすく、過ぎたことをいつまでもくよくよと悔やんでいる、「愚痴をこぼす」、ということにかけて説いてくださっています。
このように過ぎたことを悔やんで愚癡の心を起こすことは、せっかくの仏心を畜生の心に変えてしまうことだというのです
「愚癡」は、もともと「愚かでものの道理を解さないこと」をいいます、
仏教が中国に伝わる以前にも用例があるようです。
仏教語としての「愚癡」は、「仏教の教えを知らず,道理やものごとを如実に知見することができないこと」をいいます。
「また現在では〈愚痴〉と書き、「愚痴をこぼす」のように、言っても仕方のないことを言って嘆く意にも用いられる」とも岩波書店の『仏教辞典』には、解説されています。
仏教でいう「愚癡」は単に知識がないことではなく、無常・苦・無我・縁起といった真理を正しく理解できず、物事のありのままの姿を見ることができないことをいいます。
たとえば、すべては無常であるにもかかわらず、いつまでも変わらないと思い込むことも愚癡です。
自分の思い通りにならないのが世の常であるのに、何もかも自分の思い通りになるはずだと思い込むのも愚癡であります。
したがって、愚癡は単なる不平不満ではなく、その不平不満を生み出す根本の迷いを指しています。
このように、仏教語としての「真理を知らない迷い」という意味から、「道理に合わない考えや嘆き」という意味に転じ、さらに「不平不満を口にすること」を「愚痴」というようになっていったと考えられます。
江戸時代には「もう取り返しのつかないことを悔やみ、かなうはずのないことを思い続けること」として「愚癡」が使われているようです。
元来の「愚癡」は心の迷いであり、「愚痴をこぼす」の「愚痴」はその迷いが言葉となって現れたものと言えるでしょう。
そのようにもう取り返しのつかないことを悔やみ、かなうはずのないことを思い続けることは畜生の原因になるのです。
先日の禅文化研究所の「所長と行く禅の旅」では、賛助会員の方々二十数名で不徹寺さまを訪ねました。
不徹寺さまの心づくしのお料理をいただき、庵主さまの法話を拝聴して、坐禅堂でイス坐禅をして、そのあと参加者の皆さんと懇談会をしたのでした。
いろんな質問をいただきました、
ある方は、もともと後悔しやすい性格なのだそうで、何かにつけて、ああすればよかった、もっと早くしておけばよかったと、過ぎ去ったことを悔やんでしまっていたそうです。
ところが、私がYouTubeで『盤珪禅師語録』を解説している話を聴いていると、過ぎ去ったことをいつまでも悔やむのは、畜生の世界に落ちる原因になると聴いて驚かれたそうです。
そんなに悪いことなのかと思い、それからは随分と後悔する癖が直ったように思うというのですから、これは有り難いことだと感謝しました。
YouTubeで『盤珪禅師語録』を解説していたのですが、いろんな方が聴いてくださっていたのだと改めて思いました。
その方が先日、友人が「人間、死んだ者勝ちだと思う」と言うのを聴いて、そうではないのだと伝えたかったのに、十分に伝えられなかったと後悔しているというのです。
そのことが気になって、一週間ほど嫌な気持ちが続いたというのです。
そこで、その方は二つの問題があると仰いました。
一つは、私自身が生きることのありがたさを、本当には分かっていないのではないかということです。
もう一つは、過ぎ去ったことをいつまでも悔やむ癖が、まだ直っていないということです。
この二つについて、どのように考えたらよいのでしょうかというご質問でした。
私はまず、後悔することについてお答えしました。
「その時に何か言ってあげればよかった、もっと何かできたのではないかと思うことは、決して悪いことではないと思います。
それは優しさではないでしょうか。
あの人のために何かしてあげたかった、何かできればよかったと思うのは、優しさであり、思いやりです。
そのように受け止めてみてはいかがでしょうか」と申し上げました。
そのように受け止めれば、後悔する気持ちも和らぐのではないかと思ったのです。
自分を責めることもないと思います。
同じように過去を振り返るにしても、自分の失敗にとらわれて苦しむのと、相手の幸せを願って振り返るのとでは、心の働きが違うと思うのです。
それから、生まれてきたことのありがたさについてお答えしました。
「私自身も、生まれてきたことのありがたさを、本当に心の底から分かっているかと問われれば、まだまだ浅いものかもしれません。
大変な苦しみを経験された方から見れば、私の理解など十分ではないでしょう。
しかし、命の尊さというものは、言葉で説明されて、すぐに納得できるものでもないと思います。
思いがけない出来事に出会って、はっと命の尊さに気がつくこともあるのです。
ですから、その友人に対しても、何とか説得して分からせようとする必要はないと思います。
あなたの命は大切なのですよと、心にかけていればよいのではないでしょうか。
その方も、いつかどこかで、命のありがたさに目覚めるような出来事に出会うかもしれません。
そのことを信じて、温かく見守っていく、それが一番よいのではないかと思います」とお答えしたのでした。
続いて松山庵主さんがお話しくださいました。
「私は、相手を変えるということは、なかなか難しいことだと思っています。
相手を変えようとするよりも、今回の出来事を通して、自分自身が気づいたことを大切にしていただきたいと思います。」と静かに力強く語ってくださいました。
「相手には相手の生き方があります。
それはそれとして認めて、自分自身の生き方を深めることに力を注いでいただきたいと思います」というお答えでした。
私もまことにその通りだと思いました。
過ぎ去ったことを悔やんで苦しむのではなく、そこにある思いやりの心に気づくことも大切です。
そして、相手を変えようとするのではなく、自分自身の生き方を深めていくことです。
仏教でいう「愚癡」は、物事の道理を知らない迷いであります。
過ぎ去ったことをいつまでも悔やみ、愚痴をこぼしていても、過去を変えることはできません。
しかし、その後悔の心の奥にある思いやりに気づけば、そこから新たな生き方が開けてくるのではないでしょうか。
何の後悔もしないという人もいませんので、後悔する心も、受け止め方によっては、自分を成長させる大切な機縁になるのだと、改めて学ばせていただいたのでした。
横田南嶺