四諦から四弘誓願へ
その日は台風が近づいて朝から雨でありました。
まず午前中に円覚寺で臨済録の講話を行いました。
雨の中を大勢の方がお見えくださっていました。
その日は、臨済録を読むにあたっての基本的な教えを説いて終わりました。
お釈迦さまの説かれた仏教が大乗仏教となり、その大乗仏教の中でも禅という教えが出てきた流れをお話していました。
お釈迦さまとは、ブッダ、悟った人、目覚めた人、即ち真理に目覚めた人であります。
そのブッダの教えを学んで実践して阿羅漢になろうというのがもともとの教えでありました。
我々はブッダになることを目指すのではなく、阿羅漢を目指して修行したのでした。
それが大乗仏教になると、われわれもブッダになれると説くようになってきました。
しかし、それはとてつもなく長い時間のかかるものでありました。
それがさらに禅になると、本来仏であると説くのです。
もっと端的にいうと、仏になるのでなく、仏であるという教えであります。
そして自らの心がそのまま仏であると気がつくことを大切にしたのでした。
坐禅も行いますが、自らの心が仏であると問答によって気がつくという教えであります。
それが唐代の禅の特徴であります。
悟りを外に求めて修行しようとすること自体が、聖と俗とを分ける分別に陥っていると見るのです。
臨済禅師などは、今目の前でこの説法を聴いている者、それこそ仏だと説かれているのであります。
そしてさらに、そのような気づきを得られるために独自の修行方法を確立してゆきました。
聖なるものと俗なるものと分け隔てることが迷いの根本ですから、そのような二項対立の概念を否定するのです。
そのために公案を一心に工夫して、二項対立の分別を超え、二つに分かれる以前の世界に目覚めることを目指します。
それが公案の工夫であります。
そんな話をしてそのまま上京しました。
その日はそのあと東京の谷中にある全生庵で彼岸会の法話でありました。
毎年彼岸の入りの日の法要にお招きいただいて法話をさせてもらっています。
全生庵は、山岡鉄舟居士がお建てになった名刹であります。
ご住職の平井正修和尚とは親しくさせてもらっています。
学生の頃は、まだ先代のご住職であった平井玄恭和尚が御元気でしたので、よく講話を拝聴させてもらいました。
また龍沢寺の鈴木宗忠老師も提唱に見えていましたので拝聴させてもらっていました。
ご縁の深いお寺であります。
その日は朝から雨でしたが、大勢の檀信徒の方々がお集まりになっていました。
有り難いことであります。
彼岸会法要の前に、四十五分ばかりお話をさせてもらいます。
その前日に湖西市の東福寺さまで法話をした後でしたので、お釈迦さまの四諦の教えから大乗仏教の四弘誓願へ展開していったことについて、お話をしました。
東福寺さまではブッダの悟りから初転法輪の四諦を説いて、それから大乗仏教への発展を丁寧にお話させてもらいました。
全生庵さまでは、四諦から四弘誓願へ発展したところを強調させてもらいました。
四聖諦では、苦があるという真実、苦諦がまずございます。
それから苦には原因があると見ます。
集諦です。
それは煩悩であり執着であります。
その苦を滅することができるというのが滅諦です。
そのための道があると説くのが道諦です。
そのように自らの苦を見つめて解脱への道を明らかにしています。
それが大乗仏教の四弘誓願になると、その苦しみは自分自身だけではなく、全ての人、生きとし生けるものに及びます。
生きとし生けるものの苦しみを救いたいと願うのです。
そしてその苦の原因である煩悩を断ちたいと願います。
そのための道をどこまでも学びたいと願います。
すべてのものと共に悟りを成就したいという願いに転じていくのであります。
四弘誓願を分かりやすく意訳しますと、
生きとし生けるものの苦しみは限りなくあります。
そのすべての人々が、苦しみを乗り越えられるように願います。
苦しみを生み出す迷いや煩悩は数限りなくあります。
その煩悩から解放されて自由になれるように願います。
苦しみを離れて生きるための仏さまの教えは尽きることがありません。
その教えをどこまでも学び、実践するように願います。
苦しみから解放された安らかな境地に到る仏さまの道より尊い道はありません。
その仏さまの道を成就することを誓います。
という四つの願いとなります。
そのすべての人々の苦しみを救おうなどというのはとても大きな願いであります。
とても無理な願いとも言えます。
普賢菩薩行願讃には、
「乃至、虚空世界尽き、衆生及び業・煩悩尽くるとも、是の如き一切尽くる時無ければ、我が願も究竟して恒に尽くること無し。」という言葉があります。
意訳しますと、
「虚空も世界も、衆生も、その業も煩悩も、尽きることがありません。それらが尽きることがないように、私の願いもまた、いつまでも決して尽きることはありません。」
という意味であります。
この世界に苦しみ迷うものがいる限り、私の願いも終わることはないのであり、その願いを、私はいつまでも持ち続けるということを表しています。
これは願いが無限に続くことを表しているのです。
成し尽くすことのできない願いに向かって、どこまでも歩み続けるということです。
薬師寺の高田好胤師が「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という」と仰ったことを覚えていますが、これはまさにこの菩薩の精神を表した言葉であります。
横田南嶺