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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.09.27
今日の言葉

一切の生活がみなことごとくこの道である

敬老の日は、午前中に寝る禅でした。

台風の影響で開催をどうするか迷い、相談もしたのですが、台風がまだ遠いことと、午前中ならばできるのではと判断したのでした。

有り難いことに強い雨の中をご参加くださいました。

いつものように全身をほぐして腹式呼吸を行います。

今回は寝る禅の終わりにイスを用意して、少しイス坐禅も行いました。

これも毎回のことですが、とても身心よく調います。

今回は、午後から小川隆先生の修行僧向けの講座がありましたので、小川先生にも寝る禅を体験していただきました。

小川先生もとても喜んでくださいました。

「活き返ったというか、もともと自分が活き物であったことを、生まれて初めて全身で実感したような気持ちです。『天地いっぱいの我』とは、この事かと思いました。」という有り難い言葉をいただきました。

よくご参加くださっているホトカミの吉田亮さんは、その感想をnoteに投稿してくださっていました。

「呼吸をする度、鼻毛の一本一本が稲穂のように揺れるのが感じられました。」と書いてくださっていました。

これは素晴らしい感覚だと思いました。

そして午後から小川先生の講義を拝聴しました。

小川先生は中国禅宗の特徴を三つにまとめてくださっています。

それは一に「伝灯」の系譜です。

達磨大師以来代々の伝法の系譜を共通に信奉していることがあります。

二に「清規」です。

インド以来の戒律のほかに、「清規」という独自の規範をもち、それにもとづく独特の集団的修行生活を営むことです。

そこには、インド以来の戒律では禁止されていた生産労働や肉体労働も肯定されるのです。

それから三に「問答」と「語録」です。

今回は、この二の「清規」の宗教であることを学びました。

仏道の生活化であり、また生活の仏道化とも言えます。

澤木興道老師の「一切の生活がみなことごとくこの道である」という言葉はそのことを端的に表しています。

そして百丈禅師の「一日作さざれば一日食らわず」の因縁を学びました。

小川先生もかつてこの言葉を百丈禅師ご自身の言葉と思われていたようです。

私もそのように思っていました。

しかし、実際には、百丈禅師がいつも寺の労働をするときには、必ず誰よりも先に立って働かれていました。

寺の実務を担当する主事の僧は、すでに年老いた禅師が働かれるのを見るに忍びず、ひそかに禅師の使う農具を隠して、どうか仕事を休んでいただきたいと願いました。
すると禅師は、

「私には人を養うほどの徳がない。それなのに、どうして人にばかり働かせることができようか」と言われたのでした。

禅師はあちらこちら農具を探されましたが、ついに見つけることができませんでした。

そこで、その日は食事を取ることもしなかったのでした。

このことから、「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉が生まれ、広く天下に伝わったというのです。

「吾にれ徳無し、争か合に人を労すべけん」という言葉は、百丈禅師の謙虚なお気持ちを表しています。

自分で、「一日作さざれば、一日食らわず」と言われたのではないのです。

ただここで問題があります。

百丈禅師の頃には、禅院で農耕などの労働が行われるようになっていました。

中国では、インドの仏教のように托鉢と布施だけによって生活することは難しかったのです。

しかし、土を耕すことは、土の中の虫を殺してしまうことがあるので、お釈迦さまの教えでは禁じられていたのでした。

この問題はとても大事であります。

実際に百丈禅師も「草を刈り、木を伐り、地面を掘り、土地を開墾することには、罪の報いを受けるということがあるのでしょうか。」と問われています。

それに対して百丈禅師は、

「罪があると一概に言うこともできないし、また罪がないと一概に言うこともできない。

罪があるかないかは、その行為をする本人のあり方にかかっている。」と答えています。

さらに「もし、あらゆる『有る・無い』などという分別に執着し、何かを取ろう、何かを捨てようという心があって、三句を透過することができていないならば、その人には確かに罪があると言える。

しかし、三句を超え出て、その心が虚空のようであり、しかも『虚空のようだ』という思いにさえとらわれないのであれば、その人には確かに罪はないと言える。」と答えているのです。

草木を伐ったり土を耕したりしても、罪があるかどうかは、それを行う人の心に執着や取捨分別があるかが問題だというのです。

ここで説かれる三句というのは百丈禅師の教えにあるものです。

第一句は「不愛取に帰して不愛取に依住する」と説かれています。

愛取せざるに帰するのです。

これは、貪・瞋・愛・取などを離れ、色・声・香・味・触・法、さらには世間・出世間の法にも執着しないことなのです。

しかし、ここではまだ「私は執着していない」という執着が残っているのです。

第二句は「不愛取に帰するも、亦た不愛取に依住すること」がないのです。

「不愛取」にも住さないというのです。

「執着しない」という清浄な境地にもとどまらずに、手放すのです。

ひらたくいうと、「執着しない」ということにも執着しないのです。

第三句は「不愛取に依住せざるに帰して、亦た不依住の知解を作さず。」といって、「住さない」という知識解釈にさえ住さないというのです。

分かりやすく解釈しますと、第一句は、執着しない境地です。

第二句は、執着しないことにも執着しない境地です。

第三句は、執着しないことにも執着していない、という理解にも執着しないというのです。

くどいようにも感じますが、小川先生は一切が空であることに徹して、分別しないという意識も空になった境地だと解説してくださっていました。

想像でしかありませんが、やむを得ず土を耕して生活しなければならなくなった中で、こういう空の教えを基盤としたのではないかと思います。

「一切の生活がみなことごとくこの道である」というのですから、畑を耕すということ自体が仏道そのものであり、仏の営みであるとされたのでした。

その精神が今日まで受け継がれて、禅宗では料理をすることも、畑を耕すことも、庭木を剪定することも、皆仏道とされているのです。

 
横田南嶺

一切の生活がみなことごとくこの道である

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