敵も味方も
『広辞苑』には「敵・味方の差別なく、平等に慈悲の心で接すること。」と解説されています。
『広説佛教語大辞典』には、「敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。
仏教は大慈悲を本とするから、我を害する怨敵も憎むべきでなく、我を愛する親しい者にも執着してはならず、平等にこれらを愛憐する心をもつべきことをいう。」
と解説されています。
更に「日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、敵味方一視同仁の意味で使用される。たとえば、十五世紀の上杉、足利の合戦による死者の霊を供養した怨親平等碑、十七世紀、島原の乱で亡くなったキリシタンの霊を仏教側が慰めた例などがある。」
と説かれています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「文永・弘安の役の元軍撃退ののちに敵味方の霊を弔ったことは,民族や国の対立を超えることを意味」するとも書かれています。
この「文永・弘安の役の元軍撃退ののちに敵味方の霊を弔った」ことを実践されたのが、円覚寺の開山仏光国師でありました。
今回沖縄で講演をさせてもらいましたが、講演の日のお昼に出かけて、夜講演をして、その次の日には帰ってくるという日程だったので、どこにも出かけることはできませんでした。
三年前に沖縄で沖宮主催のシンポジウムに招かれたことがありました。
沖宮は私のふるさとにある速玉大社の分社であります。
速玉大社の宮司様を通してお話をいただいて参りました。
そこで怨親平等について話をさせていただいたのでした。
その折には摩文仁の丘にもお参りました。
ここは陸軍第三十二軍最後の地となったところであります。
沖縄平和祈念公園には、平和の丘モニュメントがあります。
それから国立沖縄戦没者墓苑にお参りしました。
沖縄戦では、死者は日本軍9万4136人、米軍1万2520人。さらに推計で約9万4000人の住民が亡くなったとされ、約二十万人が犠牲になったと言われています。
沖縄出身の軍人・軍属を含め、実に県民の四人に一人が亡くなったと言われているのであります。
その時に速玉大社の宮司様から「魂魄之塔」についてお話をうかがいました。
糸満市米須(こめす)にある慰霊塔です。
ここは沖縄戦末期、南部へ追い詰められた日本軍、住民、そして進撃する米軍が入り乱れた激戦地でした。
敗戦後、この一帯にはおびただしい数の遺体・遺骨が残されていました。
そこで地元の住民たちは、米軍の許可を得て遺骨収集班をつくり、道路、畑、丘、森などに散乱していた遺骨を自分たちの手で拾い集めたのでした。
そして昭和二十一年二月、米須に「魂魄之塔」が建立されたのでした。
その収骨に際しては、日本兵、住民、米兵など、敵味方を問わず、この地で亡くなった人々の遺骨が集められたと伝えられています。
魂魄之塔には、米兵も日本兵も地元の方も区別なく、その遺骨が祀られたのでした。
これは怨親平等の精神そのものであります。
怨親平等という言葉は仏典にも出てきます。
『大智度論』には、「菩薩は深心を得るが故に、怨親平等にして、之を視ること二無し」という言葉があります。
普通の人間は、自分に親しい人を愛し、自分の嫌いな人、敵対する者を憎みます。しかし菩薩は深い慈悲の心を得ているので、怨みある者にも親しい者にも平等に接し、二つに分けて見ることがない、というのです。
また『華厳経』には、「妻子集会せば、当に願うべし、衆生、怨親平等にして、永く貪著を離れんことを」とあります。
家族が集まる時には、生きとし生けるものが怨親平等となり、身内だけを愛して執着する心から離れるように願いなさい、という教えです。
『仏所行讃』にも、身内と他人を平等に見て、愛憎の分別を超えてゆくことが説かれています。
この段階では「怨親平等」は、戦争における敵味方の供養というより、親しい者とそうでない者とを分け隔てしない菩薩の慈悲を表す言葉でありました。
日本では、この仏教の平等の慈悲が、戦乱で亡くなった敵味方双方の供養へと展開してゆきました。
その古い例として注目されるのが、平安時代、朱雀天皇の時代の願文であります。
関東では平将門が反乱を起こし、西国では藤原純友が反乱を起こしました。
いずれも朝廷によって鎮圧され、多くの人が亡くなりました。
その後に朱雀天皇が、比叡山で供養の法要を営まれています。
営まれた法会の願文には、「官軍に在りと雖も、逆党に在りと雖も……誰か王民に非ざらん」という趣旨の言葉が記されています。
官軍にいた者であろうと、反乱軍にいた者であろうと、同じこの国土に生きる人間なのだから、敵味方の区別なく、その死を悼み、供養しようというのであります。
日本には、亡くなった者の怨霊を恐れ、その祟りを鎮めるという考えがありました。
しかしそれだけではなく、仏教の慈悲によって敵味方の隔てを超えようとする精神も、次第に明確になっていったのであります。
その精神をはっきりと言葉に表されたのが仏光国師でした。
元寇の翌年に円覚寺が開創されており、北条時宗公は千体の地蔵菩薩像を造って、供養をお願いしました。
その時に仏光国師は法語で、「前歳及び往古、此軍及び他軍、戦死と溺水と万衆、無帰の魂、唯だ願わくは速かに救抜し、皆将に苦海を超えることを得、法界了に差無く、怨親悉く平等ならんことを」と述べられています。
意訳しますと、「前年の戦い、さらには遠い昔からの戦いにおいて、我が軍も敵の軍も、戦って命を落とした者、水に溺れて亡くなった者、その数知れぬ人々の、帰るところのない魂を、どうか速やかに救い出してください。すべての者が苦しみの海を超えることができますように。仏の真実の世界においては、もはや何の隔てもなく、怨みある者も親しい者も、敵も味方も、ことごとく平等となりますように」という願いであります。
こういう、敵も味方も平等にという、憎しみを超えた慈悲の心が怨親平等の精神であります。
横田南嶺