全身で禅を感じる – 其の一 –
夏季講座は、これで三回目であります。
昨年同様「禅を感じる」をテーマにしました。
「禅の修行と生活」という副題も掲げています。
新しく出した『禅文化』誌の特集が「禅の修行と生活」でありますので、それと連動しています。
全体の講座を終えて、半日、じゅうぶんに禅を感じ、禅を全身で感じることができたと、深い感動を覚えています。
連日の雨模様で、鎌倉を出るときにも雨が降っていて、天気予報もよくなかったのですが、さいわいにも平林寺様で雨に降られることはありませんでした。
今回の講師は、平林寺の松竹寛山老師、円福寺の政道徳門老師、小川隆先生と私であります。
東京駅で、政道老師と小川先生をお迎えして平林寺様に向かいました。
雨上がりで、木々もしっとりと濡れていて、なんとも言えないすがすがしい雰囲気でありました。
もう平林寺様の門をくぐると、それだけで禅を感じます。
簡素で静寂なたたずまい、茅葺きの山門などは実に趣があります。
余計なものが削ぎ落とされて、しかも静謐な調和を保っている世界であります。
小川先生は、初めて平林寺にお越しになるので、とても感動されている様子でありました。
控え室で、禅文化研究所の理事長でもある松竹老師を交えて、打ち合わせをしました。
そして時間になるとまず松竹老師の提唱が始まりました。
平林寺様の広い本堂に、重厚な太鼓の音が響きます。
その太鼓の音に合わせて松竹老師が入堂されます。
七条袈裟を掛けて威儀を正しての御入堂であります。
この太鼓の響き、老師のたたずまいにも禅を感じます。
はじめにご丁寧に開講の偈を作ってくださっていてお唱えになりました。
重厚なお声が堂内に響きます。
それから『無門関』の第三十則「即心即仏」の公案を提唱なされました。
馬祖禅師に大梅禅師が仏とは何かと問いました。
馬祖禅師は、ほかならぬこの心こそが仏であると答えます。
この問答に無門慧開禅師が、
「もしも立ち所にすっかり体得できれば、仏の衣を着、仏の飯を食べ、仏の話をし、仏の歩みを歩み、そのまま仏となる。」と批評されています。
この心こそが仏であると体得すれば、日常の営為すべてが仏としての行いとなるというのです。
しかし無門禅師は、「とはいえ大梅のせいで、どれだけの人が目盛りを見誤ってしまったことだろうか」とも述べておられます。
「即心是仏」、心こそが仏であるという言葉で語ったことによって、後の人が言葉を真理と勘違いしてしまうかもしれません。
そんな禍根を残したと批評されています。
開け放たれた本堂に、涼しい風が吹いてきます。
老師の朗朗としたお声が響きわたります。
その次は、書院に会場を移して政道老師の講座であります。
政道老師は、「墨跡のある暮らし―一幅が開く世界―」と題して講演してくださいました。
三幅の墨跡が掛けられていました。
中央には平林寺さま所蔵の白隠禅師の墨跡です。
「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍(す)」と書かれています。
中央に「中」という字が、真ん中の棒が縦に貫かれているのです。
それから右側に、政道老師がお持ちくださった、慈雲尊者の「山色清浄身」の一幅であります。
そして左側にも同じく慈雲尊者の
了了了時、了ずべき無し
玄玄玄の処、亦た須らく訶すべし
と書かれています。
いずれも見事な墨跡であります。
この書に触れるだけでもじゅうぶんに禅を感じられます。
政道老師は、これらの墨跡の素晴らしさに全身で感動し、喜び、楽しみながらお説きくださいました。
拝聴しているこちらもその喜びや感動が伝わってくるのです。
まさに全身で禅を体現されていたご講義でありました。
講座の中で老師がご指導なされている二人の修行僧の話が印象に残りました。
一人の修行僧が托鉢に行ったときの話でした。
ある日の夕方、托鉢を終えて老師のもとに参禅に来た修行僧がいつもと違う足音で入ってきたというのです。
いつもより元気な感じで意気揚々と入ってきたそうです。
何があったかというと、托鉢で初めての地域に行って、しかも遠い場所だったからとても不安になり、たどり着く自信がなかったそうです。
ずっと歩いていて途中で呼吸を忘れていたことに気づいたそうです。
そこで次から次へと思いが浮かぶのですが、それを捨てて、とにかく呼吸に集中して歩こうと思ったというのです。
そうすると、呼吸のみに集中して歩いていると、不思議なことに、知らない間に一軒目にたどり着いていたというのでした。
その修行僧が「呼吸が自分を一軒目に連れて行ってくれた」と言ったそうなのです。
まだ入って一年も修行していない修行僧だったらしいのですが、素晴らしい体験だと思いました。
そうするとそのあと坐禅でも呼吸に集中できるようになり、散乱していた心が、一つ一つの呼吸に向けられて、落ちつくように変わっていったというお話でした。
さらに日常の暮らしでも、隅々まで心が行き届くようになったというのです。
それからもう一人の修行僧の話は、「朝から晩まで呼吸を見つめなさい」という課題を与えられていたのでした。
摂心という、普通一週間坐禅に集中する期間がありますが、その時に老師の発案で十二日の摂心をなさったそうです。
長い摂心ですから、今までのようにペース配分などができなくなって、それがかえってよかったようです。
六日目になって、その呼吸を見つめる課題を与えられていた修行僧が、突然、全身の感覚が鋭くなって、その時は呼吸を見つめながらも、自分の嗅覚と聴覚がはっきりしてきたのがわかったと老師に言われたそうなのです。
呼吸を見つめながら五感が鋭くなってはっきりしてきたというのです。
呼吸を見つめていると、その呼吸の一つ一つが全く違うものとして現れては消えているのを感じて、数十分の間、鼻の穴の前で生き物が生きているのを感じたと告げられたそうです。
老師もその言葉に感動されたのでした。
こういうお話を拝聴すると、老師のご指導が素晴らしいのがよく分かります。
禅が今の時代に、今の若者達にも生きているのだと感じることができます。
なによりも墨跡の前でいきいきと語る、政道老師のお姿が、禅そのものでありました。
横田南嶺