全身で禅を感じる – 其の二 –
「禅を感じるー禅の修行と生活―」という題でありました。
はじめに松竹寛山老師の提唱でした。
無門関第三十則「即心即仏」の公案を提唱なされました。
老師のたたずまい、そのお声に禅を感じました。
次には講座1「墨蹟のある暮らし、一幅が開く世界」という題で、政道徳門老師が講演されました。
そして講座2「禅のくらしと禅のことば」と題して、小川隆先生が講演されました。
それから休憩を挟んで、講座3が禅体験講座でイス禅を実習しました。
こちらは私が担当しました。
そして「禅の修行と生活」をテーマに、松竹老師、政道老師、小川先生と私とで鼎談をしたのでした。
政道老師の講座では、床の間の中央に、白隠禅師の墨跡、その両隣に慈雲尊者の墨跡が掛けられていました。
白隠禅師の「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍(す)」の一幅は迫力があります。
慈雲尊者の墨跡は右側に、「山色清浄身」左側に、「了了了時、了ずべき無し、玄玄玄の処、亦た須らく訶すべし」と書かれています。
山色清浄身は、蘇東坡の漢詩の一句です。
渓声便ち是れ広長舌
山色豈に清浄身に非ざらんや
夜来八萬四千の偈
他日如何が人に挙似せん
という漢詩であります。
政道老師は、
渓谷のせせらぎは仏さまの説法だ!
山の色・かたちは仏さまの清らかな御身そのもの!
昨晚から夜通し、八万四千の偈(真理のことば)を聴きつづけている。
この思いを、一体どう人に伝えられようか。(伝えることなんか出来ない) 。
と意訳されていました。
はじめに動中の工夫の大切さを説いてくださいました。
政道老師の僧堂に、一般の方が一週間の摂心を熱心に務められる方がいらっしゃるそうです。
尊いことなのですが、政道老師は一生懸命に修行道場の摂心に来て坐る方ほど、この修行生活が本当の生活であって、自分の日常の暮らしに戻れば、それはレベルの低いものだという捉え方をしてしまいがちだと仰っていました。
これは一般の方に限ることではありません。
私たちも修行していて、坐禅が本当の修行で、他のご飯を炊いたり、掃除をしたりというのが雑務のように思ってしまうこともあるのです。
政道老師は、そのような考えで修行を何年重ねてもなかなか核心にはたどり着けないと指摘していました。
なぜなら、これは修行、これは修行ではないと分別してしまっているからです。
それは分別心なのです。
白隠禅師が、「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍(す)」と説かれるのはまさにそのことを指摘されているのです。
これは、はじめに松竹老師が提唱された「即心即仏」、この心が仏であると体得できれば、仏の衣を着、仏の飯を食べ、仏の話をし、仏の歩みを歩み、そのまま仏となるということに通じています。
そのことをそのまま引き継いで小川先生のご講義となりました。
講義のはじめに小川先生は、先ほど政道老師が示された蘇東坡の漢詩を、美しい中国語で読んでくださいました。
そんな中国語の響きを聞きながら、古の禅僧はこのように詩を詠まれていたのだろうと想像していました。
そして小川先生もまた、はじめに「一切の生活がみなことごとくこの道である」と、澤木興道老師の言葉をお示しくださいました。
澤木老師の『禅とは何か 証道歌新釈』の言葉であります。
「……一切の生活が仏道でないものはない。
道元禅師も、「耕雲種月」、つまり雲に耕し月に種えるのが、わが家風なりといわれた通り、なにも坐禅ばかりが禅と限ったことはない。
道元禅師の『典座教訓』では、禅とは飯を炊くことであるし、また『赴粥飯法』では、御飯を食べることである。」
と説かれているのです。
日常のあらゆる営みが禅であることを、次の問答でも示してくださいました。
「あるとき趙州和尚のところへ新しい僧侶が挨拶にやってきた。「新しく参った者ですが、どうかよろしく御指導願います」 すると趙州は、「おまえ、おかゆを食べたかや」「はい、頂戴いたしました」「じゃ、お椀を洗っておけよ」 ざっと、こんな具合である。」
これも澤木老師のお言葉であります。
それから洞山三頓の棒の公案で悟った窮谷宗璉という禅僧の話、そして香厳和尚の開悟の因縁を説いてくださっていました。
香厳和尚は、お若いころから博覧強記で、一を問えば十を答える有様であり、弁も立つし聡明な方でありました。
この方が潙山和尚の下で修行していた時に、「あなたがまだ母の胎内から生まれる前の、本来の自己とはどのようなものか」という問題を与えられます。
聡明な香厳禅師ですから、すぐさま答えを示しますが、何を答えても許してもらえません。
教えを請うても、潙山和尚は、私が答えてあげれば、それは私の答えであって、あなたのものにはならないと突き放しました。
とうとう行き詰まってしまった香厳禅師は、今まで学んで蓄えてきた仏法のノートを全部焼却してしまいました。
そこで慧忠国師のお墓の掃除をしようと、墓守になりました。
毎日毎日ただひたすらお墓の掃除をしていたのです。
ある日のこと落ち葉を掃いて集めて竹藪に捨てました。
そうしたら落ち葉の中にあった小石が竹に当たってカチーンと音がしました。
その音を聞いて、たちまち気がついたのでした。
そこではるかに潙山和尚のいらっしゃる方に向かって恭しく礼拝をしました。
「あの時に何も教えてくれなかったおかげです。もし何か教えてくれていたら今日の喜びはありませんでした」と深く感謝したという話です。
その時の偈を小川先生はわかりやすく解説してくださいました。
カチンという一撃ですべてを忘れ去った。
そこにはさらに努力工夫の余地はない。
その後、自分の動き、一挙手一投足に古から続いてきた道が現れている。
決してひっそりかんとした境界に落ち込んではいない。
何をしていても、そのどの行為にも跡形が残らない。
自分のする行いはすべて目に見える姿形のあるものの外にある。
要するに、空なる自己が空を生きていると表現されていました。
終わりに小川先生は、薬山禅師のことばを分かりやすく訳して紹介してくださいました。
「言語(ことば)を絶却(たちきっ)てはならぬ。わしは今こうして汝らの為にこの語を説くことで、語(ことば)無きものを顕(あきら)かにしているのだ。」というのであります。
鼎談では、はじめにこの「一切の生活がみなことごとくこの道である」ということが分かっていなかった、私の失敗談から始まりました。
修行道場に入って坐禅しようと思っていったのですが、摂心という修行の期間にもご飯の支度をする役目ばかりを仰せつかって、苦しんでいたという話であります。
まさに坐禅が尊い修行であり、ご飯を作ることなどはそれよりも低いものと見ていたのでした。
そこを小川先生は、政道老師が、このたびの新しい『禅文化』の論稿で説かれている「我々は普段、自分が機嫌良くいたいがために、頭の中で様々な物を作り続けている」状態に通じるのではと指摘してくださいました。
まさにその通りなのです。
自分で理想の修行の暮らしを頭の中で作りあげていただけなのです。
さらに政道老師は新『禅文化』の論稿で「ところがその考えが頭をもたげた途端、修行は一気につまらなくなる。未来に幸せを求めた瞬間、日常は色あせ、今いる場所は仮の居場所になってしまう」、
「私たちは、自分の時間や快適さ、都合を守ろうとするが故に、労働が本来もっている楽しみを見失っているのではないか」とお説きになっているのです。
修行道場の暮らしでは一見すると理不尽に見えるようなこともあるのですが、それは、そのような「自分が機嫌よくいたいがための物語」を否定してくれるのです。
そして日常の営みの全てが仏道だというのは、今ここ、目の前にある事実に心が開かれていくことなのです。
政道老師が説かれる「今、この瞬間に心を開く力」、これこそが、仏道の根幹なのです。
鼎談の最後には政道老師が、『禅文化』の巻頭に書かれた松竹老師の文章を朗読してくださいました。
これまた全身全霊でお読みくださり、禅をじゅうぶんに感じることができて講座が終わったのでした。
横田南嶺