ふるさとの橋
ふるさとの新宮では七日から初盆のお祀りをしているのです。
そんなおかげでお参りすることができました。
名古屋から南紀号で新宮市に向かいます。
南紀号は、一日に三本しか出ていません。
しかもふだんは二両編成であります。
いつもは、二両編成の南紀号に乗っているのですが、この休みの時期で観光客が多い時には、四両編成となっていました。
しかも満席だったので、大勢の人がふるさとを訪ねてくれると思うとうれしくなります。
父の新盆に読経をして、話をしていると、ふるさとの熊野川にかかっている熊野大橋が撤去されることになったという話を耳にしました。
熊野大橋は、和歌山県の新宮市と三重県紀宝町を結ぶ、延長約四百十九メートルの橋です。
昭和十一年(一九三六)に開通しています。
長い間の経年劣化で橋の上部構造の部材が腐食したり、欠損したりして、破断などもしているそうです。
二〇一一年九月の紀伊半島大水害では熊野川が増水し、熊野大橋に流木などが詰まって流れをせき止め、橋の両端で氾濫が生じたこともありました。
長い間ふるさとでは大事な橋でありました。
道幅が約六メートルしかないので狭いのです。
今、車は紀宝町側からの一方通行となっています。
そのすぐ上流側に、新熊野大橋があります。
新熊野大橋は昭和五十四年(一九七九)に開通しています。
私が十五歳の時でありました。
それまでは熊野大橋しか無かったのでありました。
新熊野大橋といってももう四七年も経つのであります。
新熊野大橋は国道四二号線となっています。
さらに熊野大橋より河口側に二〇二四年一二月に、熊野川にかかる熊野川河口大橋を含む自動車専用の新宮紀宝道路が開通しました。
これによって交通量も分散され、国道四二号の渋滞が新宮市内で緩和され、熊野大橋の代替機能は確保されていたのです。
こういう経緯もあって熊野大橋の撤去は決まったのでした。
撤去されると聞くといっそう懐かしさがこみ上げます。
子供の頃はよくこの橋を渡っていました。
散歩したり、ランニングしたりしていたものです。
私にとっては実に懐かしい橋であります。
ふるさとには一泊しましたので、朝早いうちに、新宮城に登り、それから久しぶりにこの熊野大橋を渡ってみました。
子供のころの記憶がよみがえります。
橋から眺める熊野川の景色はいつ見ても素晴らしいものです。
子供のころには、まだたくさんの草が生えていて草原のようになっていましたが、今はきれいな川原であります。
父はこの川原で鍛冶屋を営んでいたのでした。
たくさんの店などが並ぶ川原屋という町になっていたのでした。
私の子供のころには、もう川原屋と呼ばれた町はありませんでした。
工業用の砂利を採っていたことを覚えています。
昭和五十三年頃から砂利の採取は禁止されたようです。
畑を作っている人も多かったものです。
川原も時代によって変遷してゆきます。
きれいになった静かな川原を眺めていました。
橋の途中からは三重県になるのです。
橋を渡って三重県に入り、帰りは新熊野大橋を渡って戻りました。
途中でランニングしている青年とすれ違いました。
「南嶺さんですか」と声をかけてくれました。
有り難いことでした。
そうして懐かしいふるさとの橋を渡ったのでした。
この熊野大橋は、昭和十一年に開通して、今年撤去されるというので、ふと気がつきました。
父の生まれた年に開通して、父の亡くなった年に撤去されることになるのです。
実に橋の九十年は、父の九十年の生涯と重なるのでした。
熊野大橋ができるまでは、渡し船だったようです。
そんなことを思うと、この大橋によって、どれほど暮らしが便利になったのかはかりしれません。
『碧巌録』に趙州和尚の石橋の問答があります。
趙州和尚に僧が、「長らく趙州の石橋を見たいと願っていましたが、来てみると、なんだ、ただの丸木橋ではありませんか。」と言います。
「そなたはただ丸木橋だけを見て、趙州の石橋を見ていない。」と答えます。
僧が「趙州の石橋とは何でありましょうか」と聞くと、趙州和尚は「驢馬も渡し馬も渡す。」と答えたのでした。
熊野大橋は、人も車も荷物も九十年にわたって渡してきました。
そうして今年その役目を終えようとしています。
橋を渡りながら、いろんなことを思い起こしました。
源信僧都の母は、朝廷に召されて喜ぶ我が子に、
後の世を渡す橋とぞ思いしに世渡る僧となるぞ悲しき
という和歌を送りました。
迷いや苦しみに沈む人々を、仏の浄土へと渡してあげる懸け橋になってくれると思っていたけれども、宮中に出入りし、世間や権力者に気に入られるだけの「世渡り上手」な僧侶になってしまったとは、何と悲しいことかという厳しい言葉です。
人を渡す橋になれたらと私も願いはするものの、どれほどの人を渡すことができるでしょうか、容易なことではありません。
横田南嶺