AIと仏教
お二人を招いての勉強会は、これで三度目となります。
思えば一昨年、佐々木閑先生とお話していて、最近のAIについて毎日ご子息であり数学者の斎生先生と話し合っていて、楽しくて仕方がないのだとうかがって、興味をもったのでした。
その頃はまだAIでどんなことができるのだろうかと興味津々でお話をうかがったのでした。
AIに指示するだけで、描きたいと思う画像ができるとか、または動画も作成できるという話を聞いて、実際に見せてもらって驚いたのでした。
それから二年、その間のAIの進歩についてはめざましいものがあります。
佐々木先生親子で、最近は『AIという鏡―人の価値とは何かー』という本も出されています。
生成AIはこの数年で格段の進歩をしています。
ChatGPTというものが出来たのは、二〇二二年だそうです。
その頃はまだおしゃべり相手程度のものだったそうですが、三年ほどで国際数学オリンピックで金メダル級の成績をおさめるようになったとか、斎生先生は子供の成長に譬えられていましたが、とても早い成長なのです。
今年になって数学の未解決の定理を証明したというのであります。
その内容については分かりませんが、なんでもたいへんな加速で進歩していることは伝わってきました。
その日は新幹線の駅まで佐々木先生親子をお迎えに参りました。
円覚寺に着くまでの間、お二人はAIについてずっと語り合っているのでした。
これにも驚きました。
そのお二人の会話からも、AIについて学ぶことが仏教と深い関わりがあることが伝わってきました。
自我がいかに小さくなるかということについて論じ合っておれたのでした。
勉強会でははじめに一時間佐々木閑先生がアビダルマについてご講義くださいました。
佐々木先生はまず、アビダルマ哲学体系の根本となる理念は「諸法無我」であると明確に説いてくださいました。
「諸法無我」というのは、この世界のどこを探しても、「私」という永遠不変の実体は見つからない、という教えです。
私という固定した本体が存在するのではなく、さまざまな要素が集まり、互いに関係し合いながら働く一つのシステムとして、人間も世界も成り立っているというのが、お釈迦さまの見方だというのです。
佐々木先生は、「システム」という言葉は現代の概念ですが、そのような概念が存在しなかった二千五百年以上も前に、お釈迦さまはすでに、人間とは固定した実体ではなく、多くの要素が縁によって集まり、絶えず変化し続ける働きそのものであると見抜いておられたのだと説いてくださいました。
ところが私たちは、その働きの状態を見て、「ここに変わらない私が存在している」と錯覚するのです。
自分があると思うのは錯覚なのです。
そしてさらに、その「私」を中心とした世界を築き、それを守ろうとするようになります。
こうして自我への執着は次第に肥大していきます。
現実には存在しない「私中心の世界」を心の中につくり上げてしまうのです。
しかし、現実には固定した「私」は存在しません。
そのため、自分の思い描く世界と現実との間には、必ずどこかで食い違いが生じます。
これが苦しみとなるのです。
さらに、「私は永遠に存在する」という思い込みは、「死んだ後も私という存在は続くはずだ」という想像へと発展します。
しかし実際には、私たちの身体も心も死によって崩れていきます。
この思い込みと現実との大きな隔たりこそが、人間の苦しみを生み出す根本原因である、とお釈迦さまは説かれたのであります。
つまり、苦しみの根源には、実体のない「仮想の自我」への執着があるということなのです。
そのあと五位七十五法について解説してくださいました。
佐々木斎生先生は最新のAIの進歩からお話くださいました。
今や斎生先生はいろんな動画をAIを使ってお作りになっておられるのです。
その精度には驚かされました。
そこから帰納と演繹について話をなされました。
帰納とは様々な経験から理論を導き出すことです。
演繹とは論理をもとにして結果を見いだしていくことです。
科学は、この帰納と演繹の往復で行われます。
AIは膨大な試行錯誤による学習の結果として現在の性能を獲得しています。
AIで水しぶきを上げる波の動画を作るには、波の流体力学の方程式を解いたり、あるいは光の物理学的な方程式を解いたりしないのです。
波というものの画像、動画を大量に仕入れて完全に経験の寄せ集めで、帰納的な経験から、波とはこういうものだという直感を働かせて、最後の最後に出力する段階で、コンピューターの力を使って演繹の世界に戻るというのです。
しかし同時にAIはコンピューターですので演繹だけで成り立っているのであります。
帰納が演繹で再現されているのです。
賢さというのは、多くの経験を短い法則に「圧縮」する力であるという説明には納得できました。
斎生先生は、自我を生み出すもととなる「私」という境界は、皮膚のような物理的な膜が情報の因果性を遮断することで生じるのだと説明されました。
情報の圧縮度が高いほど、自我の認識が小さくなってゆくというのです。
逆にそれが低くて愚かであれば自我が増大してしまうのです。
そして情報のスリム化ができて過去の経験を圧縮する力が強くなると、未知のものに対応する力が出てくるというのです。
この仕組みを圧縮するプロセスは、外界からの情報入力を遮断し、内的に情報を整理する瞑想の状態と類似しているというご指摘でありました。
私たちのどこを観察し分解しても、実体としての「私」は見つからず、それは単なるラベル付けに過ぎないというアビダルマの結論と情報システム論が通じるのです。
さらにこれから私たち仏教を学ぶ者の役割について考察されました。
斎生先生もこれからは、人間の役割というのがAIに代替されてゆきますが、その中でやはり、人と人との結び付きや、合理性だけでは割り切れない営み、そうした領域にはAIには代われない部分があると仰せになっていました。
もっともそれもまたどんどん変化していくのであります。
佐々木閑先生は最後に、「お坊さんはAI社会の最先端のものを見据えるという気概が必要だと思います。
古い時代の言葉で、古い時代のことをいくら言っても意味がないので、時代を超えるためには、お坊さん自身が先の世界をきちんと見据えておかないと、人にアドバイスできません。
だからお坊さんは最先端のテクノロジーを学ぶべきだ」と仰せになっていました。
大きな変化の中で人の心は不安になっていくと思われます。
そんな中で、「AIに負けるな」という根拠のない信念だけでは、絶望を生み出すだけになりかねません。
やはり真摯に学び、時代の変化に対応していくことが大切なのであります。
横田南嶺