利他とは
積んでおいていながら気になるものです。
そんな本がけっこうありますが、福岡伸一先生の『動的平衡は利他に通じる』という題名の本もまさにその一つです。
福岡先生の本は何冊か拝読させてもらっていて、その動的平衡という理論には興味をもっています。
その動的平衡が利他に通じるというのですから、どういうことか、気になって書店で買っていたのでした。
それがなかなか開けずに置いていました。
先日出かける折に、この本を持って行き、移動中に拝読していました。
短いエッセイをまとめた本なのでとても読みやすく、自分の今までの思い込みが打破されるので、心地よく読ませてもらっています。
はじめに書かれている言葉に、まず心打たれました。
この本はもと単行本であったのを、昨年新書になったようです。
その「新書化にあたって」という文章が最初にあります。
そこにいきなり生命の本質について実に簡潔にし、そして実に当を得た表現があります。
一部を引用させてもらいます。
「かつてフランスの哲学者アンリ・ベルクソンも、生命の本質を理解しようとして、その内部から生命を記述することを試みた。その結果、彼が得た答えは「生命には、物質が下る坂を登ろうとする努力がある」というものだった。生命の本質は“努力”である。」
というのです。
物質が下る坂というのは、エントロピー増大の方向に向かうもので、福岡先生の言葉では「秩序あるものは無秩序になる方向にしか変化しない。形あるものは崩れ、濃度が高いものは拡散し、高温のものは冷え、金属はさびる。建造物も長い年月のうちに傷み壊れゆくし、整理整頓しておいた机や部屋も散らかっていく」ことを言います。
だからこそ、生命はそれにあらがおうとするのです。
これを読んで、私はすぐにブッダの言葉を思い出しました。
なんでもブッダの教えに結びつけるのは考えもので、注意しないといけないのですが、私としては習性のようなものです。
ブッダがお亡くなりになるときには、「すべてのものは壊れゆくものである、汝等は精進すべし」と仰せになったのです。
壊れゆくというのは、まさに下り坂でエントロピーの増大です。
これが世の中にあるものの法則でもあります。
だからこそ、命あるものはそれにあらがって精進するのです。
生命はこの精進の営みにほかなりません。
ブッダが生涯「精進、努力」を説き続けられたことは、生命の本質そのものなのだと嬉しくなったのでした。
またこんな言葉もありました。
「どうして手首は360度ぐるりと回すことができないのだろう」と書かれています。
勅使川原三郎という現代ダンスの方が言われたそうです。
福岡先生は「ひじは一定の角度以上には開かないし、ひざも反対側には曲がらない。なぜ身体に、いちいち制限が設けられているのか。」と考察されています。
その結果「手首がその制限を超えて、より外側に回転を求めようとすれば、私の腕は自然にねじれ、肩が開かれ、腰は傾く。つまり制限があるゆえに、身体の他の部分の協調的な動きが促される。」というのです。
「相補性」という言葉があるそうで、互いに他を補いながら、互いに他を律するはたらきがあるというのです。
身体の各パーツの制限は、パーツ相互の連動のためにあると説かれています。
鈴木大拙先生の言葉を思い出しました。
「アメリカへ行ってラサールで何かを考えていたときに、〈ひじ、外に曲がらず〉 という一句を見て、ふっと何か分かったような気がした。“うん、これで分るわい。 なあるほど、至極あたりまえのことなんだな。なんの造作もないことなんだ。 そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだ”と悟った。…… (『世界の禅者―鈴木大拙の生涯』より」
というのです。
元来は、臂は腕のことであり、「中国語としては「ウデは内にまがるもの」といった俗諺と同じく、人はしょせん、外の他人よりも自分の身内を庇うものだ、という意味」だと小川隆先生に教わりました。
しかし、大拙先生は、ヒジが外には曲がらない、制限のあるところにこそ、自由を見たのでした。
そして更にその制限があることによって、その制限を補うように他の部分が協調してはたらくのです。
福岡先生のいう「動的平衡」とは、生物は絶えず物質を外界と交換しながら、自らを保ち続けているという考えです。
人間の体も、食べたり、呼吸し、排泄し、細胞を入れ替えながら「同じ私」を維持しているのです。
人間の呼吸も、生態系全体の中ではまさに循環を担っていると言えます。
酸素を吸い、二酸化炭素を吐いています。
一見すると二酸化炭素は不要物ですが、植物にとっては光合成の大切な材料となっています。
植物はその二酸化炭素を取り込み、酸素を放出して、その酸素をまた動物が利用します。
動的平衡が利他であるというのは、特に誰かのためにと意識して行うことではありません。
呼吸したり排泄したりして生きていること自体が他の生命を支えていることになっているのです。
生きているだけで、呼吸しているだけで、何かのお役に立っていると思えば、なにか気が楽になるものです。
横田南嶺