分からないことの尊さ
毎月勉強会をなさって、その講演録を中心にいろんな記事が掲載されています。
毎回拝読するのが楽しみなのです。
もう今号で二百十一号となっています。
今月号も開いてみると、いちばんはじめに、
「わかりやすいのが本当に良いのか」という見出しがありました。
こういう言葉には大いに共感するのです。
最初に次のように書かれています。
「誰かに「わかりやすかった」と褒められたら、どんな気持ちになるだろうか。
きっと、嬉しい気持ちになるのではないだろうか。
私は高校教師だが、生徒から「先生の今日の授業、わかりやすかったー」と言われて、有頂天になってしまった経験がある。
ところが、「待った!それって本当に喜んでいいの?」と問いかけてくる研究論文がある。」
と書かれています。
これだけでも大いに興味をそそられます。
そのあと
「二〇一九年にアメリカのアリゾナ大学やブラウン大学などの共同研究により、学習効率がもっともよいのは、学習者が百%の内容を理解できたときではなく、約八十五%を理解でき、約十五%は理解できなかったとき、ということがわかった。」
と書かれています。
分からないところがあるからいいのだと思います。
そのあと更に北村先生は、
「たとえば、難しい説明を初めて聞いた生徒は、「えっ、先生、何言ってるかわからへん」となるだろう。けれども先生は、「さあ、問題演習をやろうか」と言ってやらせる。
当然、生徒はちゃんと理解できていないから「うーん……」と頭を抱え、唸りながら必死に考える。
そのとき、生徒が簡単にあきらめたら当然そこで終わってしまうわけだが、多くの生徒は、何とか問題を解くことができるように、ノートを見返したり、教科書を見返したり、先生に質問したりする。
この遠回りの過程の中で、あるとき「あっ、わかった」という瞬間が訪れる。そうやって自分で理解を求め、自分でつかみ取ったものは本物の力となる」と書かれています。
まさに我が意を得たりの思いであります。
分かりやすい、よく分かったというのには、大きな落とし穴があると思っています。
床の間にかかっている書などを拝見しても、すらすら読めるものもあれば、読めないものもあります。
すらすら読めると、かえって心に残っていない場合があります。
素通りしてしまうような感じです。
ところが読めないとなると、何日もかけて調べたりします。
崩し字の辞典を何種類もの書物を調べて、ようやく読めたときには感動します。
そしてそうして読めた字というのは忘れないものです。
分からないことというのは尊いものです。
ただこの字を読むにしても読めないからといって、そこであきらめてしまえば、そのあとの読めた喜びを味わうことができません。
分からないものをじっと抱えて暖めることが大事であります。
こういうことは、私どもでは公案の修行で行ってきています。
公案という禅の問題はまず分かりません。
何を言っているのか、何を問おうとしているのかも分かりません。
手がかりもなにもありません。
八十五%分かって十五%分からないどころではないのです。
中村桂子先生が「生きもののことはまだ99%はわかってはいません」と書物に書かれていたのを思い出します。
『六祖壇経』にはこんな問答があります。
ある僧が六祖慧能禅師に尋ねました。
「黄梅の五祖弘忍禅師の教えの真意は、いったい誰が受け継いだのでしょうか。」
六祖は答えました。
「仏法を本当に会得した者が、それを受け継いだのだ。」
僧はさらに尋ねました。
「では、和尚さまご自身は、それを得ておられるのですか。」
六祖は「私は仏法など会得してはいない。」と答えています。
「私は仏法を得た」という思いこそが迷いなのです。
朝比奈宗源老師の『覚悟はよいか』という書物に浄土門の村田静照和上と、とあるご夫人の問答があります。
一部を引用します。
「阿弥陀如来は、どんな罪深いものでも救うという誓いをたてておられるっていうこと、本当ですか?」
「本当じゃ」
「なにか証拠がありますか」
「お前さん子供があるか」
「はい、あります」
「学校へ上げたか」
「上げました」
「手続きもしたか」
「はい」
「そのとき、先生とおまえとで、いろんな話し合いがあったろ」
「はい」
「そうか、それを全部、子供が理解していたか?親と先生とでどんな話し合いがあって、どんな内容があって、どんな手続きがとられたかということを、いちいち子供が心得てなきゃ学校へ入れないか。仏さまの御誓願もそうだ。阿弥陀如来の救いの手続きはすっかりすんでいるのに、凡夫はなお不安に思う」
という問答です。
なにも分からないままにすでに救われているのです。
分からないままに生かされているのです。
そう気がついてみると、ただただ感謝あるのみです。
仏法を学ぶということは、分かることではなく、分からないことの尊さに触れるのだと思います。
横田南嶺