閑雅なるを要す
早いもので、今年ももう七月となりました。
六月の二十八日は大用国師誠拙禅師のご命日でありました。
大用国師は円覚寺の中興であります。
「中興」という言葉は、いったん衰えた物事を再び盛んにするという意味です。
円覚寺は弘安五年佛光国師を開山として建てられました。
創建された頃は、円覚寺の全体が修行の道場でありました。
佛殿には本尊毘盧遮那仏をお祀りして、法堂で説法がなされ、選仏場で坐禅をしていたのでした。
それがだんだんとこの修行がおろそかになってしまう時期があったようであります。
江戸期は宗風の沈滞していた頃だと言われています。
そんな中を、円覚寺の中に再び修行の道場を作ろうという動きがあったのでした、
ただいま修行道場のあるのは、舎利殿と開山堂のある正続院であります。
この正続院を修行の道場としたのでした。
その指導を任されたのが大用国師でありました。
誠拙周樗禅師です。
大用国師は一七四五年四国の宇和島の生まれです。
二十歳の頃に横浜の永田東輝庵の月船禅師について修行されました。
明和八年二十七歳で円覚寺に入っています。
天明元年三十七歳で今の僧堂に師家にあたる前版職に任じられています。
天明四年今も修行道場として使われている宿龍殿ができあがっています。
文化十一年円覚寺の第一八九世となられています。
六十四歳で僧堂をお弟子の清蔭禅師に譲って伝宗庵に隠居されます。
その後玉泉寺に隠棲されました。
しかし、更に大用国師は京都の天龍寺や相国寺にも招かれて修行道場を再建なされています。
お亡くなりになったのは、相国寺に於いてでありました。
また、六二歳の時には八王子の広園寺にも僧堂を開単されています。
五七歳の時には南禅寺の僧堂にも招かれて提唱をなされているのです。
その一代の業績は大きなものがあります。
今も宿龍殿には、おそらく大用国師が定められたとされる僧堂の規則が掲げられています。
漢文で書かれていますが、その頃の修行の暮らしが分かります。
現代語訳すると
午前四時頃、起床の鐘を十八回鳴らす。その合図で修行僧は一斉に起床し、静かに寝具を畳む。
起床から身支度までは私語を慎み、静かに行動する。
洗面を済ませたら自分の単の位置に戻る。
直日が板木を三度打ち鳴らす。
小鐘の合図で宿龍殿へ行き、朝のお勤めを行う。
僧堂へ戻って聖僧(文殊菩薩)の前で読経する。
夜明けの坐禅を線香二炷分行う。
午前八時頃に再び坐禅を行い、午前十時頃に終了する。
正午頃に午後の坐禅を行い、午後四時頃に終了する。
その後、宿龍殿で夕方のお勤めをし、続いて聖僧の前で読経する。
午後六時頃から夜坐を行い、午後八時頃に終了する。
というように坐禅を中心とした修行だったことが分かります。
また修行僧の心得として
行動はおだやかで、歩くには静かに歩かなければならない。
話すときは小さな声で話すこと。
堂内へ入るときには問訊し、退出するときには叉手して礼を保つ。
歩くときは雁が列を作るように整列し、立ち居振る舞いは終始、落ち着いて品格のあるものでなければならない。
と書かれています。
「落ち着いて品格のあるものでなければならない」というところの原文は「閑雅なるを要す」です。
「閑雅」という言葉は趣があると思います。
閑かで雅びだというのです。
上品で優美だということです。
このような文章を拝読すると今の動作、振る舞いを反省させられます。
横田南嶺