達磨様になぜヒゲがないか
『無門関』の講義といっても第一則から順番に講義をするのではなく、第一回はお釈迦様の公案を取り上げたのでした。
第五則の「世尊拈華」の公案と、第三十二則「外道問仏」の公案を取り上げて学びました。
第二回では達摩様の公案を取り上げたのでした。
第四十一則の「達磨安心」の公案と、第四則の「胡子無鬚」の公案を取り上げて学びました。
第四則というのは短い公案であります。
或庵曰く「西天の胡子、なんによってか鬚無き」という短いものです。
或菴禅師は、なぜ達磨様に鬚がないかと言ったのです。
だいたい、どの達磨様の画も拝見しても、達磨様といえばまず目をぎょろりと見開き、鬚はボウボウに伸びています。
鬚のない達磨様の画は先ずございません。
ところがここで或菴禅師は、なぜ達磨様に鬚がないかという、一見全く矛盾した問題を提起しました。
これに対して無門恵開禅師は、「参はすべからく実参なるべし、悟はすべからく実悟なるべし」と仰せになっています。
参禅するのならば、うわべだけの頭だけ参禅でなくて、体でもって身を以て実のある参禅でなければならない、悟りも観念だけではなくて、全身全霊でああなるほどその通りだと受け止める実のある悟りでなければならないと説かれます。
「者箇の胡子直にすべからく親見一回して始めて得ん、親見と説くも早く両箇と成る」といって、この問題はいちど達磨様に親しくお目にかかってみなければならない、親しくお目にかかったというだけでは達磨様と自分と二つになってしまうと説かれています。
無門慧開禅師の言わんとするところは、要は達磨様と一つになれということです。
頌に「痴人面前夢を説くべからず、胡子無鬚、惺惺に懵を添う」とあります。
愚かな者の前では夢の話をするな、ほんとうだと勘違いをしてしまう。
達磨様になぜ鬚がないか、はっきりしているのにあえてわからなくなってしてしまっているという、そんな意味合いです。
さてこれは何を言っているのでしょうか、山田無文老師は次のように提唱なされています。
禅文化研究所の『無文全集第五巻』から引用します。
「「西天」は、インドのこと、「胡子」は、いわゆるエビスで、中華人が西南の他種族を軽視して呼んだ名である。
「西天の胡子」とは、西南の方から来た外国人、それは誰でもよいわけであるが、ここでは達摩大師と申してよかろう。
「西天の胡子、甚に因ってか鬚無き」。達摩さんには、なぜ鬚がないかというのである。およそひのな鬚い達摩さんはない。絵で見でも、彫刻を見ても、達摩さんは皆な鬚が濃い。
老僧時々、「和尚はなぜ髪を伸ばしていますか」と尋ねられるから、いつもお答えするのである。「頭を剃ったお釈迦さまを見たことがあるか」と。
「なぜ鬚を生やすか」と聞かれるから、いつも答えるのである。「鬚のない達摩を見たことがあるか」と。」
と書かれています。
無文老師は白いお鬚をたくわえておられました。
それでこのように説かれているのです。
更に「だいたい「鬚」というのはあごひげであり、「髭」は上ひげであり、「髯」というのは頬ひげで、ひげもいちいち字で区別してある。
「西天の胡子、甚に因ってか鬚無きー達摩さんにはなぜひげがないか」、これは確かに逆説というか矛盾というか、ありえないことを言うたものである。
「ナポレオンになぜひげがないのか」と言うなら話は通ずるが、「カイゼルになぜひげがないのか」では論理に合わない。
達摩さんになぜひげがないか、いかにも矛盾したことを言われたようであるが、『般若心経」をご覧になると、「無眼耳鼻舌身意」と書いてある。眼もなければ耳もない、鼻もなければ舌もなく、体もなければ意もないと書かれてある。皆さん平気であれを読んでおられるが、それでよろしいのかナ。それが納得いけたら達摩さんに鬚がないというのも、納得していただけるはずである。』
と説かれています。
更に興味深い話が書かれています。
「昔、中国の宋の神宗という皇帝の時代に蔡君謨という人があって、それは見事な長い鬚をはやしておったそうである。
ある日、皇帝が、「お前の鬚はいかにも立派なものじゃが、寝る時には布団の中へ入れて寝るのか、出して寝るのか」と言って聞かれた。
そんなことはいっぺんも考えたことはないから、そう言われても返事ができなかった。
家へ帰ってその夜、床につき、どっちだかと思って鬚を布団の外へ出してみると頤をひっぱられるようで、どうも眠りにくい。
中へ入れると胸のあたりがもじゃもじゃして、これも眠りにくい。
入れたり出したりしているうちに、夜が明けてしまったという話がある。
立派な鬚も、有るということにこだわると、もう悩みである。
有ることがそのまま無いことであるから、毎日気楽に暮らせたのである。
そこでわれわれは、心の中に何か一念でも念が有れば、それが悩みであり、一念の念も無いのが幸せというものである。」
というのであります。
無文老師は、
「仏と凡夫とは、どこが違うかと言えば、心に念が有るか無いかの違いである。
心に念が有れば凡夫、念が無ければ仏、それだけの違いである。
「胸に一物、背に荷物」とよく言うが、背中に欲望という荷物を背負って、胸に思案という一物を持っておっては、人生苦しくてたまるまい。
有ることが無いことで、無いことが有ることでと、こう現実から、ちょっと離れることが大切である。
この複雑怪奇な現実の世界へ頭を突っこんで、ああか、こうか、ああでもない、こうでもないと念が絶えないから苦しくて、ノイローゼにならなかったら自殺でもしかねない。
その現実から、ちょっと離れさえすれば直に楽になる、この現実から、ちょっと離れて日暮らしのできることを解脱と言うのである。」
とこの公案について説いてくださっています。
鬚が生えた達磨大師なのですが、あえてなぜ鬚がないのかと問うことによって、あるなしのとらわれを超えさせるのです。
すると生まれた、亡くなったという隔てもなくなります。
そこではじめて本当の達磨様にお目にかかれることを、公案は示してくださっています。
横田南嶺